2016年11月11日 (金)

本について

 以前にも書きましたが、「国語の成績を上げるために」本を読めという意見には反対です。本を読んだからといって国語の問題が解けるようになるわけではありませんし(国語の成績を上げたいならば本を読むよりも文章を書く練習をするべきです)、そもそも本というのは「自分が読みたいから」読むものです。親が「本ぐらい読みなさいよ!」と言ったところで子供が読むはずもありません。「成績を上げるため」という不純な動機が、かえって子供の読書嫌いを加速させます。私自身、古文に漢文にしろ、あるいはクラシック音楽にしろ美術にしろ、ある程度年齢を重ねてようやくその面白さや素晴らしさが少し理解できるようになりましたが、学生時代は全く面白いと思いませんでした。漫画や映画やゲームの方が遥かに面白かったのに加え、学校教育がそれらを強制することがかえって余計に私の興味を遠ざけました。

 実際、本は面白いものです。映画や漫画やゲームは面白いですが情報が一方通行なのに対し、本は自分の想像力を膨らませることができます。実際、どんなに感動した映画でも3回目以降になると感動が薄れますが、本は何回読んでも飽きません。本は読むたびに新たに想像性が掻き立てられるからです。ただ、それは本人が感じることであって、周りが強制することではありません。もし私が友達から「この本、面白かったよ。あんたも読んでみたら?」と言われれば読むかもしれませんが、「役に立つから、読めや!」と言われれば絶対に読みません。

 子どもが興味をもって自分で選んだ本であれば、それがライトノベルであろうがエロ小説であろうが、親は口を出してはいけません。ゲームにはまるよりマシです。親や学校はとにかく子供の将来に役に立ちそうなもの、特に古典を勧めますが(国語の入試問題で作品名と作者名が出題されたりするから)、これは非常にリスクが高いです。自分達と全く価値観の異なる時代の人々の感性と子供の感性が合うはずがありません(実際は古典は「ああ、時代が変わっても人間ってこうだよなあ」という共感を引き出してくれますが、子供には理解しにくいでしょう)。小学生が太宰治の『人間失格』や夏目漱石の『こころ』を読んで、「う~ん、分かるわあ」という方が怖いです。私が高校生の頃、「そろそろ本ぐらい読まないとマズいよな…」と急に思いたって選んだのがページ数の非常に少ないヘミングウェイの『老人と海』、全然面白くなかったですが読み終えることができ、調子に乗った私は「次はもっと大作に挑んでやろう!」とドストエフスキーの『罪と罰』を購入、死ぬほどつまらないうえに文章が難しく全く読み進められず、3日も経たぬうちに断念しました。「役に立つから」とか「そろそろ高校生だから」とか「ドストエフスキー理解できる俺って超カッコいい!」などという不純な理由で読んでも長続きしません。「面白そうだから」「興味があるから」それが一番大事です。ちなみに少し前に、某中学受験塾の模試の国語の問題が小説『聖の青春』(大崎善生)から出題されていました。この小説は、若くして亡くなった天才棋士・村山聖さんの生涯を描いた小説なのですが、その内容があまりに面白かったので早速アマゾンで注文し、一気に読んでしまいました。松山ケンイチさん主演で映画化もされましたが、かなりお勧めです。未見の人は是非。

2016年10月25日 (火)

難易度を下げる

 先日ですが、男子生徒から「はぁ~、何のために勉強するんですかね?」と相談されました。この生徒の悩みもごもっとも、昔とは異なり、生活するのに何不自由ない環境下で、現実社会と切り離されて教育をうけている現状では、「将来のため」「金のため」「生活のため」だと言われても実感が持てないでしょう。若者が社会に出て、そこで初めて社会の厳しさを目の当たりにし、「ああ、もっと勉強しておけばよかった!」と後悔するというのはよくあるパターンですが、逆に言えば、社会に出てみないと勉強の必要性は実感できませんし、親がどれだけ「あんたの将来のためや!」と言ったところで効果はありません。ただ、「もっと勉強しとけばよかった!」と後悔してい人たちは今からでも勉強を始めればいいのですが、大多数はそうしません。やはり人間は本質的に、嫌いなことはしたくないのです。逆に、では勉強のできる人は社会の厳しさを知っているから勉強しているのかと言われれば、決してそうではありません。勉強のできる人は、単にテストでハイスコアをとれることに喜びを感じているからでしょう。勉強もスポーツやゲームと本質は同じですが、事実上学力がその人の評価に直結してしまうから、勉強だけがクローズアップされているに過ぎません。

 中学時代に天才扱いされていた子供が、高校に入って落ちぶれて全く勉強しなくなるというケースは多々ありますが、それはゲームの難易度が上がったせいで、今まで取れていたハイスコアが取れなくなり、「つまんなくなった」からです(それでも女子は最低限の宿題はしますが、男子は宿題すら全くしません)。そういう人たちはどうすればいいのか?ゲームに例えれば簡単で、行き詰まったらまずは少しレベルを落として経験値を稼げばいい、それと同じで、まずはレベルを落として、基本だけやればいいのです。結果を求めるのは先、自己満足でいいんです。なまじ成功体験があると、自分の現状をなかなか受け入れがたいでしょうが、プライドだけ高くても何の役にも立ちません。自分が少しでも楽しめるように持っていける、それもまた能力です。

2016年7月29日 (金)

人権作文について

 毎年中学生用の課題として出される人権作文ですが、「人権」なんて言ったって子供にはぴんと来ないのではないでしょうか?かつては、政府に都合の悪い書物は読むのを禁止され(知る権利の侵害)、身分制度により自分のやりたい職業にもつけず(職業選択の自由の侵害)、好きな相手とも結婚できず(婚姻の自由の侵害)、政府の批判をすれば警察に捕らえられ(表現の自由の侵害)、まともに裁判を受けられず(裁判を受ける権利の侵害)、選挙権すら認められない、そのような時代がどの国にもありました。しかし現在では人権は厚く保障され、人々は何不自由なく生活できるようになりました。そういう現状で、人権の大切さを子供に認識させるのはなかなか難しいことです。

 ただ、子供にも人権の制約がないわけではありません。子供には飲酒や喫煙の自由がありません(「~の自由」は人権のうち「自由権」に含まれます)。しかしこれらを制約するのは子供の健康を守るためであり、その制約には合理的な理由があります(これを「公共の福祉」といいます)。これらの人権は、子供を守るという利益に比べたら、それほど重要な権利ではありません。あるいは、例えば医療ドラマを見て感動した中学生が「よーし、明日から医者として働くぞ!」と思っても医師免許がないので医者として働けません。この場合、医師の免許制度は中学生の「職業選択の自由」を制約していることになりますが、医療知識のない人が患者の治療をしても効果がないどころか、患者が死んでしまうことになるため、この制約には理由があります。しかし、例えば、部活動で試合中にミスをして顧問にビンタされた、こういう場合、その生徒の「身体の自由」は侵害されていることになります。顧問からすれば「生徒を教育する権利(教育権)」の範囲内だ(いわゆる「愛のムチ」)と反論することになるでしょうが、ではこのビンタは教師の「教育権」の範囲内と言えるのか、「身体の自由」この場合「殴られない自由」は顧問の「教育権」により制約されるだけの合理的な根拠があるのか?ビンタが教育権の範囲外であるならば、それは人権侵害になります。あるいは授業中に生徒が教師の質問に答えられないとき、教師から「アホ!」などと罵られたり「こんなんも分からんの?」と小馬鹿にされた場合、こういう発言は教師の「教育権」の範囲内なのか、生徒の「名誉感情」を教師の「教育権」で侵害できるのか?これらの発言が教育権の範囲外であるならば、それは人権侵害になります。あるいは、中学受験を控えた生徒が「学校に行かんと家で勉強したい」と言ったとき、学校が「学校に来て授業を受けろ!」と強制してきた、この場合、生徒の「(自分で)学習する権利」と学校の「教育権」とがぶつかることになりますが、果たして学校の教育権は生徒の自宅学習の権利を制約できるのか、問題となります。あるいはもっと単純な例で、「勉強したくない!」という子供に対して親が「勉強しろ!」と強制することは許されるのか、この場合、子供の「勉強をしない自由」と親の「教育権」が衝突することになりますが、親に教育権の優越を主張できるだけの合理的理由がない限り、それを強制するのは子供の人権侵害になります。今、関西テレビで『ウォーターボーイズ』の再放送がされていますが、生徒達が「学園祭でシンクロ公演をしたい」という主張に対して、学校側が「受験勉強に専念させるため、公演は認めない」と言ってきた場合、このような制約は認められるのか?シンクロ公演をする自由は「表現の自由」に含まれますが、学校側の教育権、この場合、「生徒達の将来ために受験勉強に専念させて良い大学に行かせる」という理由で制約できるのか?

 長々と書きましたが、要するに、人権あるいは人権侵害というのは日常生活のあらゆる場面でいくらでも問題になり得るということです。学校によっては「犯罪被害者の人権について」だの「アイヌ民族の人権問題について」だの、やたらと壮大なテーマが出されたりしますが、そういう日常生活からかけ離れたものでなくても、まずは身近なところから人権意識をつけていった方がいいように思います。

2016年7月 1日 (金)

漢字について

 学力を上げていくうえで漢字は欠かせません。国語の問題で確実に漢字は出題されるうえに、そもそも漢字の意味を知らないと文章を読み進められないからです。漢字は国語の土台であり、そこを避けては国語の成績アップは望めません。なので、何はなくともとりあえず漢字さえ覚えておけば何とかなります。しかし実際のところ、成績の悪い生徒ほど漢字を覚えていません。そこで保護者から「漢字を覚えるにはどうしたらいいですか?」とよく質問されるのですが、前にも申したように書いて覚えるのが間違いないでしょう。ただ、書くことすら「しんどい」といってしない子供もいます。それはもう私の力ではどうすることもできません。ただ、漢字は必ず意味も覚えなければなりません。漢字を覚えるのが嫌と言う子供は、近道をしようとしてろくに意味を調べずに漢字を覚えようとしている印象ですが、漢字の一つ一つの意味を知ると、漢字ほど面白いものはないということがよくわかってきます。

 例えば「商売」と言う熟語に関して。公民に絡んでよく生徒に「商売って何?」と質問すると、たいていの人は「物を売ること?」と答えます。進学校の生徒もそうです。「じゃあ農家が米作って売っても商売なん?」と質問すると、「うーん、何となく農家は違うんじゃないっすか?」と答えますが、誰もその正確な意味を答えられません。大人でも意外と知らない人が多いし、実は私も大人になるまで知りませんでした。今までこれに答えられた生徒はただ一人、西高の生徒でしたが、ずばり「転売?」と答えてくれました。そう、商売とは転売のことです。他から安く仕入れて他に高く売る、要はピンハネすることが商売なのです(商社にお勤めの方は気を悪くなさらないでください)。算数の問題でよく出題される「原価~円で仕入れて定価~円で売ったときの利益は?」というあれです。中学受験生の教え子はこの問題を解いたときに「(ピンハネして)クソ野郎やな…」と言っていました。そう、小学生でも「クソ野郎」と思うので、昔の儒教圏では「士農工商」で商人が一番下で差別されてきたし、儒教国家の中国で資本主義が発達しなかったのもそういう差別意識が強かったからです。しかし実際は商業を自由にした結果、生活は豊かになり、貧富の差は拡大したものの、人々は特に不自由なく暮らせ得るようになったのです。そもそも「商」と言う字自体、差別用語でした。商とは昔の中国の殷王朝の生き残りの人々のことで、商は周(殷を倒した王朝)の人々から徹底的に差別されました。土地を持たず、定職に就くことも許されなかったためやむなく転売して生活していったのですが、その結果大儲けして、更に差別されるようになっていきました。そういう「商の連中がやっている売買」だから商売なのです。

 漢字一つでもこれだけ面白い意味があります。別にここまで細かく調べろとは申しませんが、時間はかかりますが、漢字の一つ一つの意味を調べていった方が結局は印象に残りますし、覚えやすいと思います。なので、漢字の問題集は、漢字の意味が載っているものを使用した方がいいです。機械的に字だけ覚えろと言うのも無理な話です。私の授業では、生徒に意味を聞かれたらお答えするようにしています。できるだけ小話を挟んで、興味を持ってもらえるようにしています。

2016年6月10日 (金)

学歴と学力

 著名人はそろって「学歴なんか関係ない!」と仰いますし、私もその意見に賛成です。学歴はあくまでその人の一定の時期の学力を示したものに過ぎませんので、大学時代に遊び呆けてどれだけ学力が落ちようが学歴で評価するのは妥当ではありません。その学力というものも、あくまで事務処理能力の高さに過ぎません。ただ、これを「だから勉強なんてする必要ない!」と曲解して怠ける人が少なからずいます。成功した人は別として、「学歴なんて関係ない!」と言っている人たちは、学歴に代わる評価基準を何か持っているのか、甚だ疑問です。

 学歴は関係ありませんが学力は大いに関係あります。むしろ今は学力そのものが評価されていると言えるでしょう。企業が結局は学歴で採用しているのは、「学歴なんて関係ない!」と言っている人たちが学歴のハンディを覆すチャンスを大いに与えられているにもかかわらず、それをアピールできるものが何もないから、結局は消去法的に学歴で判断されているのでしょう。要するに、「何もない奴よりは、事務処理能力だけでもある奴の方がマシ」ということです。それを「学歴差別だ!」などと言われても、企業からすればいい迷惑です。

 何か自分のやりたいことがあればそれに突き進めばよいですが、そうでないなら勉強することです。どんな道に進もうが、結局やることは本質的に変わりません。練習して壁を越えて、また練習して次の壁を超える、ただひたすらその繰り返しです。そこから逃げた人は、何をやっても逃げます。自分が逃げるのを社会のせいにしながら、死ぬまで逃げ続けます。

志望校を選ぶ前に

 志望校選びに関して。まず大前提として認識しておかなければいけないのは、有名大学に行くためには公立の勉強だけでも十分だということです。公立だと高校時代にかなり頑張らなければなりませんが、中学までに基礎をしっかりと固めておけば何ら問題はありません。公立の勉強もおぼつかないのに有名中学に進学するのはやめておいた方がいいです。子供を進学校に放り込んでおけば、あとは学校が導いてくれると勘違いされているケースが多いですが、実際はむしろ逆で、どの進学校も授業では高いレベルを中心に進めていくので、基本は自己責任でしなければなりません。そういう意味では、子供により強い自主性と自律性が求められます。有名私立に入ったは良いがついていけなくなった、そういう人はその辺りの覚悟が足りていない印象です。

 次に、偏差値が高いからといって必ずしも本人にとって良い学校とは言えないということです。西高なのに獨協にしか受からなかった人もいれば、市姫から神戸に受かる人もいます。白陵なのに兵庫県立大にしか受からなかった人もいれば、淳心から京大に受かる人もいます。学力が逆転するのは、その生徒がその学校に合う・合わないという要素が大きいためです。あくまで学校は本人の成長のための手段に過ぎません。伸びる・伸びないは本人次第です。そういう意味では、判断基準は合格実績ではなく、その人に合うか合わないかで判断すべきです。

 あと、大学の合格実績は現役の数で判断するべきです。一見多くの進学数を誇っているようでも、実際はほとんどが浪人生というケースもあります。あの難関試験を突破した天才児たちなのに、公立よりも1年余分に大学入試対策をしたのに、それでも現役合格者はたったこれだけ、一浪して合格できたのは、元々の地頭の良さと予備校の手柄、その辺りを認識しておかねばなりません。

 個人的には、基本をしっかりとやってくれる学校が良いと思います。0から1を生み出すのは大変ですが、1から2や3を生み出すのは容易です。その辺りをしっかりと理解できている学校なら間違いないでしょう。少なくとも、オーバーワークで子供の才能を潰すような学校はやめておいた方がいいです。

義務教育は必要だが授業は不要

 某塾の受け売りと言うわけではないのですが、確かに「(集団)授業って必要か?」「自分でやった方が早くね?」という疑問は、ある程度以上の学力のある人であれば、少なからず思った経験があるのではないでしょうか。これは小中学校(公立)にはあまり当てはまりませんが、高校、特に偏差値の高い高校の生徒ほど、その思いは強くなるのではないでしょうか。

 私の経験で言えば、頭のいい人ほど基本をしっかりさせるべきなのですが、実際はそうはなっていません。例えば、高校生から非常によく受ける質問が「そもそもサインとかコサインって何なんですか?」「そもそもログって何なんですか?」です。私が高校生の頃、数学の授業中にクラスで一番賢い子が「そもそもサインとかコサインって、何なんですか?」と質問してみんな拍手大喝さい、実はみんなサインコサインの意味がよく分かっていなかったのです。教師は面食らった様子で、結局「角度が何ちゃら…」と意味不明な解説をしていました。基本とはこういうことです。「そもそもサインコサインって何?」「それが実生活でどう役に立つの?」そういう根本的なことをしっかり教えておかないと、生徒は具体的なイメージを全く持てません。そこをおざなりにして解法だけ教えるというのは、もはや学問ではありません。教え子の一人によると、同じような質問をすると教師から「そのへんは教科書に詳しく書いてあるから、後で読んどけ」と言われたそうですが、教科書を読んで足りるのであれば教師は必要ないですね。

 理科系(科学・物理・生物)であれば、教師が専門用語を一方的に羅列して自己満足に浸るケースが多々ありますが、専門用語を羅列するのであれば教科書を読むだけで十分です。英語であれば、長文読解ばかりを宿題に出し、授業ではひたすらその解説ばかりを行い、生徒が質問に答えられないと怒鳴ったり小馬鹿にしたりするケースが多いですが、それなら自分で答え合わせした方がはるかに効率がいいでしょう。生徒達の話を聞く限り、今も昔と変わっていない印象です。勿論、教師により教え方の上手い下手はピンキリですので一括りにはできませんが、外れに当たると悲惨です。私の経験上、「この人、分かりやすい!」と思えたのは数えるほどです。中学時代の国語の先生と、中高時代の塾の塾長と、司法試験予備校講師の柴田孝之さんぐらいです。この3人に共通しているのは、難しい内容を極力平易な言葉で説明できる能力と、笑いのセンスです。悲しいかな、そういう人はほとんどいませんでした。

 サービス業というのは普通、映画・漫画などの文化的なものであれ、医療であれ美容であれ、普通は客がサービスに対し対価を支払い、内容に満足できなければ内容を変更してもらえるか、あるいは損切りでサービスを受けるのをやめることができるのですが、学校教育というのは特殊で、こちらが金(税金)を払ってもサービスの内容(授業の質)が悪いと「馬鹿なお前が悪い!」と逆切れされます。塾や家庭教師だと契約切られて終わりなのですが、学校教育だとそのサービスを変えてもらうことはおろか、受けるのをやめることすらできません。そして内職も許されないため(内職されるような授業をする方が悪いのですが)、無駄に時間を過ごす羽目になります。これは拷問以外の何物でもありません。せめて内職を許容してくれれば、生徒達も助かるのですが。

 学校の授業が分かりにくいのであれば、自分で何とかするしかありません。具体的に言えば、内職スキルを上げるしかありません(ただしバレても責任は負えません)。別の科目の問題集を開くとすぐにバレるので、教科書を読み込むのが一番です。何周も、何周も、基本を徹底するのです。小論文のある学校を受験するのであれば、頭の中で草稿をつくれば良いでしょう。あるいはもう、授業中は完全に睡眠時間に充てるのもいいかもしれません。達人になれば、目を開けたまま寝れます。時間を無駄にしない方法はいくらでもありますので、自分なりの方法を考えましょう。何もしないよりはましです。

2016年5月19日 (木)

違法性と信用の話

 先日パナマ文書が公開され、日本の大手企業や有名実業家がタックスヘイブンを利用して節税していることが明らかとなりました。釈明に追われた当事者は、こぞって「違法性はない」と開き直っています。また、東京都知事の舛添要一さんが税金でファーストクラスに乗ったりスウィートルームを利用したり公用車を使って別荘通いしていた点について「違法性はない」と開き直っています(現在は違法性の「ある」別の疑惑も出ています)。日本は法治国家なので、法律に禁止されていないことであれば何をやっても罰せられないのが基本です。なので、確かに違法でない以上、罰することや追徴課税を課すことはできません。しかし、これに納得できる国民はいないでしょう。皆きっちり納税している中、実質的に脱税をしている連中が見逃されていれば国民の間に不公平感が増し、ますます勤労意欲ひいては納税意欲を失くしていくことになるでしょう。倫理的にどうなの?と問われているにもかかわらず「違法性はない」としか答えられない企業や人物は信用を失い、その内消えていくでしょう。既に不買運動も始まっているようです。

 教育業界も例外ではありません。模試を受けただけの生徒を合格者に含めていたことが判明し、公正取引委員会により勧告処分を受けた某大手予備校、本を注文しただけの人や送迎バスに乗っただけの人、模範解答を請求しただけの人も合格者にカウントしていたことが判明し、同様の処分を受けた司法試験予備校、途中でやめた人や体験授業を受けただけの人、夏期講習を受けただけの人も合格者にカウントしている塾、15分~30分ほど「個人契約はだめですよー」「挨拶はきっちりしましょうねー」などの説明をしただけで「わが社が責任をもって研修を行い、教えるプロに成長させました」と言う家庭教師派遣会社(どのコースに頼んでも派遣される教師は同じです)、「生徒」や「研修」の定義次第でどうとでも解釈できるため、こぞって「違法性はない」と開き直ります。そういう倫理観なき会社は信用を失い、淘汰されていくことでしょう。

 とある有名私立の話です。以前、一部の私立が合格実績を上げるために有名私大の推薦枠を成績下位の生徒に配分していると書きました(寄付金と推薦枠配分の因果関係については不明です)。しかし「人の口に戸は立てられぬ」もので、この不公平な配分が生徒や保護者の不信感を招き、結果、生徒達の勉強意欲を阻害し、合格実績の低下や志望者数の減少を招いているようです。合格実績を上げるには、下位の生徒に推薦枠を与える方が確かにコスパはいいでしょうが、人の感情を全く無視したこういうやり方に不信感を持たれるのは容易に想像できるはずなのですが。

 かつて儒家は法家を「ルールをつくれば、人々は『ルールさえ守っていれば何をやってもいい』と思うようになり、倫理に外れた行為を行っても恥じることがなくなる」と批判しましたが、今まさにそうなっている通りです。もっとも、法家は儒家を「モラルに任せたら結局ずるがしこい奴だけが得をし、正直者は損をする。だから法(ルール)で不公平がないようにしなければならない」と反論しています。これもまた妥当です。結局、コンプライアンスも倫理観もどちらも必要だということです。

2016年5月 8日 (日)

『これからの世界をつくる仲間たちへ』落合陽一

 最近テレビによく出演されている落合陽一さんの本です。内容は、これから世の中が大きく変わる中で、若者がどう生きていくべきかを説いたものです。理系の方ですが専門的な内容ではなく、分かりやすい文体で書かれています。

 内容を簡単に要約すれば、今までは事務処理能力の高いホワイトカラー(知的労働者)が出世のロールモデルだった、なので学力が高い=事務処理能力が高い人は成功できた、しかしこれからはコンピューターが加速度的に発展してホワイトカラー(知的労働者)のポジションを奪っていく、なので勉強ができるだけでは成功できない、成功したいならコンピューターにできないことをするしかない、コンピューターは事務処理能力は高いが創造性はない、なのでこれからは創造性のある人(「クリエイティブ・クラス」)を目指すべき、というものです。後半は、クリエイティブクラスになるために必要なことが具体的に書かれており、若者は勿論、私のような中高年にも非常に参考になる内容だと思います。

 ただ、実際のところ、現在の日本の教育システムでは、なかなか創造性を育てることは難しいだろうと思います。創造性とは答えのないものですが、最初から答えのある問題をテストや入試で出題して、それが解けると評価される、そういう環境では優秀なサラリーマンは育ちますが創造性は育ちません。これからは入試の形式もどんどん変わってくるでしょう、どの学部でも小論文は必須になってくると思います。

2016年4月29日 (金)

中学受験とは飛び級のことです

 中学生用の問題集を見ると、中学受験の問題と全く同じ問題が多々あるのに気づきます。中学では連立方程式、つまりxとyを使って解きますが、中学受験では消去算といって、xの代わりに□を、yの代わりに○を使って子どもに説明しています。しかし結局やっていることは全く同じです。

 「中学受験では方程式の解法を使ったらだめですか?」という保護者の質問に対し、昔の塾は「絶対にダメ!」「使うと0点になりますよ!」と明言していました(全ての塾がそう言っていたわけではありませんが)。しかしインターネットの普及によって「方程式を使って合格した」という声が聞こえ始めると、「禁止されているわけではないですけど…」と態度を変えました。塾からすれば、「方程式は使ってはダメ!」としておかないと経営に響いたからでしょう。もっとも、方程式の方が中学受験の解法より優れているというわけではありません。抽象度の高い文字式よりも、具体性のある中学受験の解法の方が分かりやすいという子供は多々いることでしょう。方程式を教えて混乱する子供もいるかもしれません。分かりやすい方を使えばいいだけの話です。

 そもそも昔は、今のような学習塾はありませんでした。しかし、例えば灘中学は1928年に開校され、現在に至るまで入試が行われています。灘中学や神戸女学院中学などの問題の中には、高校で習う範囲の問題が出題されていたりします。塾のなかった時代に、子供達はどうやって勉強していたのか?答えは簡単、中学や高校の教科書や問題集を使って、先取りをしていたのです。娯楽の少なかった時代に、小学校の勉強に満足できない子供たちが、自主的に中学や高校の勉強をして、そのあくなき知識欲を満たしていたのです。結果的にそういう子供達が社会で成功し、以降、「中学受験で成功していい大学に入って出世街道に乗る」というロールモデルが形成され、それに憧れる家庭が増加しました。

 そしてそういうご家庭の要望を満たすべく、中学受験専門塾が台頭しました。優れたマニュアルで数多くの子供達に可能性を広げたのは間違いなくそれらの塾の功績です。しかし、中には子供自身よりも親の願望によって受験勉強を始めたという家庭もあり、合格できたもののカリキュラムについていけず、ドロップアウトするという子供も現れ始めました。「名門私立に入れば、質の高い授業とカリキュラムで子供を導いてくれる」と思われがちですが、高いのはあくまで「レベル」であって、必ずしも「質」が高いわけではありません。教師の言っていることが難しすぎて授業についていけない(良い教師とは、難しい内容を簡単な言葉で説明できる人ですが、進学校におけるその認識のなさは今も昔と全く変わっていない印象です)、そういう場合でも、昔の子供達であれば、自分が入りたくて入ったのだから、それにくらいついていけたのでしょう。しかし元々そんなにやる気のなかった子供達は気持ちが折れ、ドロップアウトしていきます。

 よく「公立中学はレベルが低い」と言われますが(よく学習塾はこう口撃しますが)、確かにレベルは低いですが、質が低いわけではありません。教師も別に教え方が下手なわけではなく、私の経験で言えば、むしろ中学時代の先生たちの授業が一番分かりやすかったです(たまに分かりにくい教師もいましたが、そういう人はたいてい年寄りでした)。授業のレベルが低いのは、学力の低い生徒達に配慮して、全体のバランスをとらないといけないからです。学力の低い生徒たちに合わせて平易な言葉で説明するため、生徒達はより良く理解することができます。そして公立中学でしっかりと基礎を固めることができた生徒達は、高校でもスムーズに学習が進められます。私立に比べて1年短い状況で大学入試に備えなければなりませんが、基礎さえ固まっていれば後は何とでもなります。それに、実は姫路は全体的にスポーツが強いです、例えば(白浜の)灘中学は柔道部が、夢前中はバレー部が全国大会の常連ですし、その他の学校も結構スポーツや文化部が強かったりします。公立だと、そういう名門クラブの英才教育が「タダ」で受けられます。そう考えると、公立が決して悪いとは思えません。

 長々と書きましたが、私が言いたいのは要するに、無理して私立に行く必要はないということです。昔の人達のように、本来は先に先に進みたい人が行くべきところなのです。私が口出すことではありませんが、本人が(中学)受験勉強を続けたい、あるいは(私立)中学を辞めたくないというのであれば、やる気がある限りはそのまま続けさせた方がいいでしょう。ただ、そうでない場合は、公立に戻るのも決して悪いことでも恥でもありません。

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