2018年3月29日 (木)

環境を変えるしかない

 少し前にベストセラーになった橘玲さんの新書『言ってはいけない 残酷すぎる真実』に、「子供の性格は遺伝と非共有環境で決まる」という一節がありました(海外での研究の結果を橘さんが引用した形です)。非共有環境とは、子供が家族と共有していない環境、つまり学校や友人関係といった家族外での環境のことです。人間は社会的な動物(一人では生きていけない動物)なので、社会におけるポジション(社会的地位や年収など)に最も高い関心を払う、それは子供も例外ではなく、子供は学校や友人関係においてのポジション(男子なら誰が一番賢いか、誰が一番ケンカが強いか、女子であれば誰が一番可愛いか、どの男子と付き合っているのか、など)に最も関心を払い、家庭内のことには重きを置かない、というもの。要するに、子どもの性格は親の遺伝と学校や友人関係などの非共有環境で決まるので、親がどれだけ一所懸命子育てをしてもあまり効果はないということです。これはあくまで研究結果の一つに過ぎません。ただ、こう言われて、実際に思い当たる人は少なくないのではないでしょうか?もし、一所懸命子育てしているのに子供が真っ直ぐに育たなくて困っているという親御さんがおられれば、そういう方は責任を感じる必要は全くありません。子供が真っ直ぐに育っていないのは子供の非共有環境(学校や友人)が良くないのだから、親にできること、すべきことは、子供の環境を適切なものに変えてあげることです。

 では、子供にとって良い環境とは何か?それは、自分を高める努力をしている「尊い人」の近くに子供を置くことです。私自身、小学生の頃は少し荒れていたのですが、中学に上がって半ば強制的に柔道部に入部させられ、そこで自分よりもはるかに強い人達が、高みを目指して一心不乱に練習する姿を見て、自分の小ささを痛感すると同時に、自分もこの人達みたいになりたいと思いました。子供にとって一番大事なことは、そういう「尊い人」に出会えるかどうかです。

 勉強にしてもスポーツにしても、高いレベルにいる人ほど精神的成熟度も高いので、そういう人からは大きな刺激を受け取ることができます。なので、勉強に関していえば、なるべく偏差値の高い所に子供を行かせるのが無難ではあります。ただ、全員が全員、そういう「尊い人」から刺激を受けるかと言えば、そういうわけでもありません。偏差値の高い学校に合格したものの、そのカリキュラムについていけなくなったという場合、「尊い人」を見習おうとする子供と、現実逃避する子供です。後者は男子であればゲームやネットにはまり、それを成績の良い子供にも広げる。自分の子供が特定の友人と付き合いだしてから成績がガタ落ちしたという方もおられるのではないでしょうか?女子であれば、簡単に承認欲求を満たせる恋愛の中毒になり、そういう子供たちが派閥をつくって学校の空気を悪くしてしまいます。もし自分の子供がそういう状態になってしまった場合は、環境を変えるしかありません。子供を何か厳しめの部活動に入れるとか、近所のボクシングジムや空手道場に通わせるとか、場合によっては転校させるとか、とれる手段はいくらでもあります。いずれにせよ、説教して改心させようとは思わずに、淡々と対処するのが良いでしょう。

2018年3月 6日 (火)

思考を言語化する

 私が大学に入ってから最も苦労したこと、それは「上手く話せない」ということでした。学生同士で討論する場面で、言いたいことはあるのですが、それをうまく表現できない、論理的に組み立てられない。結局、つたない単語を組み合わせて当たり障りのないことを言うだけで「自分の意見」というものに昇華できない、そういうことが多々ありました。

 上手く話せなかった原因はいくつかあります。一つ目は、中・高時代に知識や解法を覚えることに偏り過ぎて、教科書という最高のツールを活用しなかったこと。教科書には必要なことがすべて載っています。「~だから~」、あらゆる記述が論理的に配列され、無駄な部分が1ミリもありません。この仕事をするようになって改めて教科書を読み直して、初めてその凄さに気づきました(特に理系科目)。結局、学校の教師達の言っていたことが正しかったわけですが、高校生の頃の私には教科書を読み込むだけの学力はありませんでした。それは中学時代に、教科書を読み込むことをしてこなかったためです。教科書の要点だけを押さえて本質的なことを理解しないまま問題集を解いて知識を固める、要領よくやったつもりでしたが、そのツケを高校以降に払うことになりました。

 二つ目は、国語教育に問題があります。国語(というか現代文)では、主に文章の読解のみが行われています。「筆者の主張を正しく解釈しろ」というものです。コミュニケーションは、①まず相手の言っていることを正しく理解して、そのうえで、②自分の意見を伝える、その繰り返しで成立します。①が正しくできないと、相手としては「いや、そんなつもりで言ったんじゃねえよ!」ということになり、コミュニケーションが成立しません。なので、①をすることは必要なのですが、問題は、②がほとんど行われていないことです(戦前であれば上官の言うことをきくだけの兵士を育てるため、戦後であれば上司の言うことをきくだけのサラリーマンを育てるため、国家にとって②は不要どころか有害でありました)。教育制度改革でどこまで改善されるのかは分かりませんが、今のままではいけません。②ができないと話を聞くだけで終わってしまうだけなので、もしかしたら男性は女性にモテるかもしれませんが。

 少し前に老荘思想と「断捨離」ブームが起こり、ミニマリストが増加し、その後に「承認欲求を捨てろ」というアドラー心理学が流行しました。これまでの拝金主義や学歴主義が崩壊し、人が人としての生き方を模索していることの表れに思います。国家や通貨も、もしかしたら崩壊するかもしれません。そうなると、大切なのは他者との精神的なつながりになります。自分がどういう思想や哲学を持っているのか、それを相手に伝えるためのコミュニケーション能力がより重要になってきます(要するに、学歴や金があってもモテないし、満たされないし、幸福感も感じられない、ということです)。そのためにも、普段から思考を言語化する癖をつけなければなりません。日記やブログを書くのもよし、誰かと好きな漫画や映画を語り合うもよし、割と女子は普通にやっていますが(ゆえに女性は昔からコミュニケーション能力が高いのです)、男子もしなければなりません。

 思考の言語化以前に、そもそも言語化ができないという人は、まずは語句の説明から始めてみると良いでしょう。例えば歴史の問題集では、「Q:民族と国家の利益を最優先する軍国主義的な独裁政治の体制を何というか。」「A:ファシズム」というような一問一答の問題がありますが、それを逆にする、つまり、「Q:ファシズムとは何ですか。」「A:ファシズムとは、~」という形にすれば、歴史の知識と言語化能力を同時に身に付けられるので一石二鳥です(文を丸暗記しろと言っているわけではありません。自分なりの表現ができればよいのです)。これから始まる大学入試制度改革で明言されているのが「総合的学力」の必要性、知識をいかに言語化できるかが評価の対象となります。勉強の難易度は上がりますが、それに早く対応できた人が勝ちます。

2018年2月27日 (火)

勉強する意味は教えられない

 「子供が家で全く勉強しない。ガツンとなんか言ってやってくれ(説教)。」もう何度も(家で全く勉強しない子供の)保護者の方々から聞いてきたセリフですが、正直なところ、この要求が一番困ります。子供に対し、勉強に集中するための具体的な方法のアドバイスならいくらでもできますが、それ以上のこと、つまり、私の説教によって子供を改心させ、子供を家で勉強させるようにしろというもの、そこまではできません。子供に「なぜ勉強しない?」と質問すると、正直な子供であれば「何で勉強しなきゃいけないの?」と答えるでしょう。仮に私が子供でも、そう答えるでしょう。勉強しないで困るのは子供本人ですから、子供本人がそれを受け入れれば済む話です(そして親は子供への学習支援を打ち切ればよいのです)。「勉強したくない」という子供に対して親が勉強させたいのであれば、それは親の欲なので、親自身が子供を説得せねばなりません。ただそれは、難しいでしょう。世の中にはやる気を出すための自己啓発本があふれていますが、定番がないのは、それはやる気は外からは生み出せないからです。「何のために勉強するの?」これは子供自身が答えを出すしかありません。少なくとも私は、子供に勉強する意味を教えることはできません。「今学んでいることは将来役に立つ」なんてことはありませんし、「学歴があれば将来就職に有利」という時代もとっくに終わっています。これからシンギュラリティを迎え、あらゆる価値観がますます多様化し相対化していく中で、一つの答えを導き出せるはずもありません。ただ、一つだけ確かなのは、勉強してとりあえず学力を高めておけば、将来の選択肢を増やせるということです。運動すればするほど体力がつくのと同じで、勉強すればするほど学力は上がります。学力が高ければ(ついでに体力もあれば)、何かを始めるときにスタートダッシュできますし、社会がどう変化しようとも、何とかそれに対応して生き延びていけるでしょう(漫画『キングダム』の言葉を借りれば、将に必要なのは「武・智・勇」、これらは永遠に変わらないでしょう。私個人としては、それらの上に、常識やモラルがあります)。結論として、私は「やっておいた方がいいと思うよ」としか言えません。それ以上のことは言えません。本人が必要性に疑問を感じていることを「必要だからやれ」と言うのは他者のエゴであり、それはもはや洗脳です。

 「何のために勉強するの?」その答えは、子供自身が見つけ出さねばなりません。なるべくたくさんの人の話を聞き、なるべくたくさんのことを体験して、子供自身が悩んで、悩んで、悩みぬいて答えを出すしかありません(ゲームやスマホばっかしていると、その悩む時間を奪われ、いつまでも堂々巡りをすることになります)。その答えが「勉強する必要なんてない」であれば、親はそれを尊重するしかありません。さっさと社会に出て、本人がそこで幸せならそれで十分ですし、本人が改めて勉強の必要性を認識し、再び勉強したくなったらすればいいのです。何かを始めるのに、遅すぎるということはありません

 繰り返しになりますが、私には子供に勉強する意味を教えられません。子供自身でしか解決できないことは、子供自身がするしかありません。子供が自分なりに悩み考え、「やっぱり勉強は必要だ」という答えにたどり着いたのであれば、その子供の負担を軽くしてあげることはできます。

2018年2月11日 (日)

公民の概要

 中3の2学期以降、「公民、わけわからん…」と嘆く生徒が少なくありません。確かに公民はとっつきにくい科目です。そのとっつきにくさには原因があるのですが、それは一旦置いておいて、以下、中学の公民で学ぶ大まかな内容を簡潔に説明しております。時期的に「今さら」ですが、公民の基本からさっぱりわからないという人は、是非(以前書いた法律の記事の内容と重複しておりますので、こちらに統合しております)。

 原始時代、人々は狩りや採集をして過ごしていました。ところが人々はある時期から農耕を覚え、農作物を育てやすい川の近くに定住するようになりました。一人で作物を育てるのは効率が悪いので、人々は固まって作業を分担して、効率的に農作物を育てるようになりました。これが村の始まりです。効率的に作物がとれるようになると、村は豊かになり、人口も増えました。すると、その農作物を狙って盗みを働く者が出るようになりました。村は対抗策として、体力のある村の男たちに村の警護をさせるようになりました。これが警察の始まりです。ただ、警察官は警護をしている間は働けません。そこで警察官の収入を保障するため、村は村人みんなからお金を少しずつ集め、そのお金を警察官にあげるようにしました。これが税金の始まりです(他にも、道路や橋や学校をつくるためのなど、税金の目的はたくさんありますが、ここでは割愛)。警察の力によって盗みは減りましたが、今度は村の外から盗賊や他の村が、豊かな農作物を狙って村を襲ってくるようになりました。警察の力だけでは守り切れない村は、さらに若者の数を増やして村を守るようにしました。これが軍隊の始まりです。軍隊の力で村を守り、時には襲ってきた村に対して反撃もしました。こうして村同士が戦いを繰り返し、最終的に勝ち残った村が他の村をまとめ上げ、一つの国になりました。そして勝ち残った村の村長が国王となり、勝ち残った村の村人たちは貴族となりました。

 やっと戦が終わり、人々は幸福になるはずでした。ところが、国王や貴族はぜいたくを始めました。ぜいたくをするためにはお金が必要なので、国王は国民からたくさん税金を取るようになりました(財産権の侵害)。重い税金に対して国民が不満を述べると、国王は軍隊や警察を使ってその国民を捕らえ、刑務所に入れたり、時には処刑したりしました(表現の自由、生命・身体の自由の侵害)。そういうことが続き、ついに我慢の限界を超えた国民たちは、国王に対してクーデターを起こしました。国民たちは国王に対し、「たとえ国王といえども、ルールには従ってもらう」と要求しました。これが法律の始まりです。身の危険を感じた国王は、やむなくその要求に応じました。そしてそのルールは、国民の選挙によって選ばれた代表者たちが、話し合いで決めることになりました。これが国会の始まりです。法律によって、国民の権利は保障されるようになりました。

 ところが、ぜいたくをあきらめきれない国王と貴族たちは、今度は国会の代表者たちにたくさんのお金(わいろ)を贈り、そのお金を受け取った国会の代表者たちは、国王や貴族に都合の良いルールばかり作るようになりました。その結果、法律によって国民の権利が侵害されるようになりました。これに怒った国民たちは、たとえ法律によっても変えられないルールを作り、仮にそのルールに反する法律が作られた場合は、その法律は無効にするということにしました。このルールが憲法です。そして法律が憲法に反しているかどうかは、裁判所が判断することになりました。これが違憲審査制です。このように、国家権力を法(法律や憲法)によって制限するという考え方を「法の支配」といいます。

 「法の支配」によって、国は法(憲法や法律など)の範囲内でしか行動できなくなりました。国家権力を法によって制限することで国民の自由を保障し、国は主に国の治安維持(警察)と外敵からの国の防衛(軍隊)「だけ」を行うようになりました。こういう国家観を夜警国家といいます。法の支配によって国民の自由が保障されるようになった結果、国民は自由に発言し、自由な職業に就けるようになり、自由に経済活動を行えるようになりました。国民は自由になり、みんな幸せになるはずでした。ところが実際には、国民の貧富の差が拡大しました。頭のいい人は資本家として、頭のよくない労働者を安い賃金で長時間労働させ、その利益を独占しました。資本家も労働者も自分たちの自由な意思で契約を結んでいるので、労働者は文句を言えません。しかし労働者の不満は高まり、結局国に「なんとかしてくれ!」と泣きつく結果となりました。国は労働者たちの要望に応え、法律(労働基準法)で資本家と労働者との契約に介入するようになりました(「資本家は労働者を1日~時間以上働かせてはならない」「時給は最低~円以上にしてはならない」「資本家は、この法律に違反した場合は~円の罰金を支払う」など)。

 国が単に国民の安全と自由を守るだけではなく、国民の生活を安定させるために積極的に政策を行う、という国家観を福祉国家といいます。生活保護や国民健康保険や高齢者の医療費の自己負担額の制限など、すべて福祉に当たります。そして、国民が国に対して「なんとかしてくれ!」と要求する権利を社会権といいます。要するに、国民が国に対して「~するな!」と言えるのが自由権であり、「~してくれ!」と請求できるのが社会権です。自由権と社会権は表裏一体です。労働基準法で資本家と労働者との契約を制限するのは、労働者の社会権を保障する一方で、資本家と労働者との契約の自由を制限していることになります。生活に困っている人に生活保護を支給することは、生活に困っている人の社会権を保障している一方で、そのために必要なお金を国民から税金として集めているため、国民の財産権(経済的自由権の一つ)を制限していることになります。どこでバランスを取るべきかが、政治の命題です。

 以上が、中学の公民で学ぶ大まかな内容です。なぜ公民の教科書はとっつきにくいのか?それは、「国家権力は必ず暴走する」という歴史的事実をぼかしているためです。私は左翼では決してありませんが、「権力は常に疑うべし!」という視点は常に持っておかねばなりません(現在は権力は国家に限らず、大企業やマスコミなど、あらゆる権力を含みます)。国の本音は、政治には無関心で、ただ言われた通りに真面目に働いてたくさん税金を納めてくれる若者が欲しいのでしょう。権力は常に国民の権利を侵害する危険性をはらんでいます。国民と国家との対立構造という視点で公民を読み解いていけば、結構楽しめると思います。

2017年12月20日 (水)

暗記について

 「暗記だけではダメ。思考力も含めた総合的学力をつけなければならない。」こう言われて実に久しいです。そしてこれからも暗記することは徐々に減り続け、思考力そのものを問う問題がますます増えていくことでしょう。知識を知りたければググれば(Googleで検索すれば)いいだけですから、ググるだけでは対処できないことに対する能力を要求されるのは当然の傾向です。

 ただ、長年「暗記だけではダメ。」の部分が強調されてきた結果、暗記が軽視されるようになってしまいました。「暗記だけではダメ」という言葉には「暗記をしている」という前提があり、「暗記をしなくていい」なんて一言も言っていないのですが、子供達の頭の中では「暗記だけではダメ」→「暗記だけやっても点数はとれない」→「暗記しても点数はとれない」→「暗記しても意味がない」→「暗記しなくていい」と、実に都合のいい脳内変換が行われてしまっています。漢字や英単語など、単純な知識は覚えていないと解きようがないものですが、そういう部分を覚えられない子供が少なくありません。「俺は暗記はしないけど思考力がある(つまり俺は頭はいい)」などと勘違いしている男子が実に多いですが、思考力のある人ほど知識が豊富です。持っている知識を活用するからこそ、思考力があるのです。その前提となる知識がないと、思考できません。

 「じゃあ暗記するにはどうしたらいいんですか?」これはもう、書くしかないのではないでしょうか。書くと言っても手書きに限らず、wordで入力するのもアリです。また、音読を勧める人もいます。いずれにせよ、五感を使って覚えるのが一番でしょう。これを言うと必ず言われるのが、「めんどくさい」「だるい」「しんどい」「コスパ悪くないですか?」「書くより、見て覚えた方が早くないっすか?」という反論です。自分のやり方で楽に覚えられるのであれば、その方法でするに越したことはないのですが、全く何も覚えていない人ほど「コスパが悪い」だの「見て覚えた方が早い」だのと言います。「見て覚える」と豪語する人のパターンが、見る→疲れる→すぐやめる、というものです。見て覚えられるだけの脳のスペックがないのですから、地道に書いて覚えるしかないのですが、「しんどいし、時間もかかるから嫌」なのです。これはもう、「じゃあ諦めなさい」と言うほかありません。そもそも書くという作業は、時間はかかりますが、脳への負荷が少ないので、長時間できます。言うほどコスパが悪いとは思いませんが。

 一度もスポーツをしたことがない茶道部の少年がボクシングの村田諒太選手の活躍を見て「よ~し、俺もプロボクサーになって、ボクシングの世界チャンピオンになるぞ!」と一念発起したとしましょう。その少年がボクシングジムに行ってまず最初にさせられることは、走り込みと筋トレです。そこで少年が「そういうのは自分でできますんで。そんなことより、テクニックを教えてくださいよ」とか、「もっと楽に基礎体力つける方法ないですか?」などと言おうものなら、「馬鹿か、お前は!」と一喝されることでしょう。テクニック以前に、それをこなすための基礎体力がなければ話になりません。スポーツの強豪校はどこも、生徒に対し基礎体力トレーニングを死ぬほどさせます。技術以前に、基礎体力がないとどうにもならないからです。それと同じで、勉強でも基礎となるべき知識がないと話になりません。そういう基礎を身に付けるためには、地道な作業を長時間かけて行わなければなりません。そこを逃げる限り、その道で成功することはできません。これは勉強に限らず、どんな分野についても言えることです。

2017年11月23日 (木)

宿題について

 宿題とは?広辞苑によれば「学校で学習したことの復習または予習のため家庭でやらせる課題。」とのこと。ではなぜ、学校(や塾)は宿題を出すのか?それは反復させて問題を解けるようにさせるためです。例えば、子供に自転車の乗り方をマスターさせるには乗り方を教えるだけではダメで、実際に自転車に乗せて練習させないと乗れるようにはなりません。それと同じで、学校や塾で解き方だけ教わっても実際に解かせてみないと解き方は身につきません。

 「宿題をちゃんとしているのに、テストでは点数がとれない」そういう子供が多々います。そういう子供はたいてい、宿題を一回しかしていません。一回やってみて間違えた問題を直しをしただけで終わってしまっているため、テストでは点数をとれません。間違えた問題が解けるようになるためには、その問題を自力で解けるようになるまで何回も何回もしなければなりません。直しをして理解しただけでは足りません。「理解」と「解ける」は完全に別物なんです。

 宿題をしないと解けるようにならないのに、なぜ成績の悪い子供は宿題をしないのか?まず第一に、周りに勉強よりも楽しいことがあるため、それに流されているというパターンです。「楽しいこと」とは、現在は主にネットとゲームです。この場合の対処法は簡単、「勉強よりも楽しいもの」を処分すればいいだけの話です。それは保護者にしかできませんし、それができないのであれば、子どもの勉強での成功はあきらめるしかありません。

 第二に、その宿題の難易度がその子のレベルに合っていないというパターンです。宿題というのは基本的に不特定多数を対象に出されるものであるため、そのレベルについていけない子供にとっては、宿題は苦痛でしかありません。この場合は、宿題の中でも自分にできること「だけ」をするしかありません。もし今勉強している範囲より以前でつまづいている場合は、そこに戻ってやり直すしかありません。人にはだれしも、「ここまでなら頑張れる」というラインがあります。そのぎりぎりのラインを拾っていければ、学力は身に付けられます。

 逆に、宿題がその子にとって不要なものであるパターンもあります。ある程度学力が高まれば、自分にとってその宿題が必要か不要かというのは容易に判断できるようになります。自分にとって優先すべき科目の課題があるのに、他の科目からの大量の宿題に時間をとられ、本来やるべきことに時間を割けない。そういう思いをしている人(特に高校生)は多いのではないでしょうか?そういう人は自分の直感を信じるべきです。私自身も、明らかに「これ、無駄だろ」と思う宿題は全くしませんでした。学校からすれば宿題をしていなくても結果さえ出していれば問題はないので、適当にやったふりして答えを丸写ししても特に問題ありません(あくまで、やらなくても「できる」のが前提です)。

 繰り返しになりますが、宿題というのは不特定多数を対象にしているものです。宿題が個々人のニーズに合わないのはむしろ当然なのです。本来、子どもが自主的に復習できるのであれば、学校は宿題を出す必要なんてありません。自分のことは自分にしかわからないのですから、最終的には自分で課題を設定して自分で復習をしていかねばなりませんし、そうしないといつまで経っても学校に依存してしまうことになります。

2017年11月17日 (金)

歴史的思考力について

 どうやら高校で、歴史用語が半減されるかもしれないとのこと。「大学入試で歴史の細かい用語が出題され、高校の授業が暗記中心になっているのは問題だ」からだそう(朝日新聞デジタル版11月16日付)。個人的にはこの改革に大賛成です。日本史も世界史も、覚えることが多すぎて、歴史の流れが分かりにくくなってしまっている。

 そもそも歴史をなぜ学ぶのか?文部科学省によると、世界史は「地理的条件や日本史との関連、歴史的思考力」で、日本史は「主題学習の充実、伝統文化、歴史的思考力を育成」とのこと(ソース)。両者に共通している「歴史的思考力」って何だよ?抽象的でよくわかりませんが、個人的に共感できるのは、「過去の失敗の事実とその原因を知り、同じ間違いを繰り返さないようにするため」という意見です。これから先、私達の社会で大きな問題が起こったとき、過去のケースをサンプルにして、解決策を見つけていくということでしょうか。そう考えると、何年に誰が何したとか、どういう名前の制度であったかなどということは、実に些末なことになります。例えば、「誰が鎌倉幕府を開いたのですか?」というのは大して重要ではなく、「なぜ源頼朝は鎌倉幕府を開いたのですか?」ということの方がよほど重要です。人によって様々な解釈がありますが、一番スタンダードなものは「朝廷から政治権力を奪うため」というもの。鎌倉幕府が成立する以前は、一部の既得権益層(皇族と貴族)だけが政治権力を行使して利益を独占していたため、その既得権益層を排除するために朝廷から政治権力を奪ったということです。この既得権益層とそれを排除しようとする構図、いつの時代のどの国にも起こっていることです。過去のケースをサンプルにして問題を解決していく力を身に付けさせようというのがおそらく、文部科学省の狙いでしょう。

 これからの大学入試、この「歴史的思考力」そのものを問う問題がますます増えることでしょう。「日本の江戸時代の鎖国政策の妥当性について論じた上で、これらかの日本のTPP交渉における方向性を示せ」とか、「過去の歴史的事象から考えて、これからの日本は中国に対してどのように対応していくべきか?」とか、単純だけど考えさせるという問題が増えていくことでしょう。この方が、教える側も学ぶ側も楽しめます。とてもいいことだと思います。

2017年11月16日 (木)

努力について

 「努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力している。」かのベートーヴェンの言葉です(てっきり、『はじめの一歩』の鴨川会長のオリジナルの台詞だと思ってました)。勉強にしろスポーツにしろ、努力なしに成功することはできないということでしょう。辞書によれば、「努力」とは「目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。」とのこと。ある人は子供に対し、「寝る間も惜しんで勉強しろ!」「苦しくても歯を食いしばって努力しろ!」と仰っていました。そうなると、私自身は「努力」はできないですね。少なくとも私は、寝る間を惜しんだり苦しいのを我慢すると、「もう二度とやりたくねー!」と感じ、ますます勉強が嫌いになりました。ベートーヴェンの言う「努力」が日本語の「努力」と同じ意味なのか、そのあたりはよくわかりませんが、ベートーヴェンが「私は、自分に課せられていると思っている創造を全てやり遂げずに、この世を去るにはいかないのだ。」と言っているあたり、ベートーヴェンには創造に対する内面的衝動が先にあり、それに体がついていけない(難聴と肝硬変)から努力したという感じでしょうか。少なくとも、外からあーだこーだ言われて嫌々努力したという感じではないようです。

 私自身、大学受験のときは、自分では努力したと思っております。ただ、「寝る間を惜しんで」とか「歯を食いしばる」とか、そういう思いは全くしていません。自分がやるべきことをやっていたら、いつの間にか時間が過ぎていた、そういう感覚です。要するに、いつの間にか勉強に没頭していた、ハマっていたという感覚です。結果的に睡眠時間が短くなることはありましたが、それはあくまで没頭の結果であり、そこに負の感情はありませんでした。なぜハマれたかというと、自分で立てた戦略が自分にとって無理のないものだったからです。どうすれば気持ちを切らさないでいられるか(家庭での環境づくり)、今の自分は何ができるか、どのレベルなら頑張れるか、いかに無駄なこと(主に学校の課題)をしないで済ませられるか、そういうところを正しく自己分析して戦略を立てられれば、あとはそれに従えば何ら苦ではありませんでした。努力は主体性ありきです。疲れたらすぐに休みましたし、眠くなったら眠りましたし、遊びたくなったらすぐに遊びました。仮に当時、眠いのを「我慢」して勉強していたり、自分のレベルや方向性にまったく合わない学校の課題をクソ真面目にやっていたり、遊びを一切シャットアウトしていたら、間違いなく途中で挫折していたと思います。

 日本人は努力が大好きです。努力なしに成功できないのは間違いないでしょう。ただ、努力の方向性に関しては、未だに戦前のメンタリティがそのまま残っている印象です。つまり、圧倒的なアメリカとの戦力差を「気迫でなんとかしろ!」というもの。戦前のメンタリティが残っている人は、他人が壁にぶつかっているのを精神力で超えるよう強要してきます。子供に「寝る間を惜しめ」とか「歯を食いしばれ」とか言っている人もしかり。そういう精神論を強要された子供たちが言うとおりに勉強するかと言えば、実際にはほとんどしないでしょう。精神論以前に、家が勉強に集中できない環境であったり、そもそも勉強の難易度がその子供に合っていなかったり、子どもの食生活や睡眠時間が乱れていたり、子供が運動不足であったり、先に改善すべきことがいくらでもあるのに、それらを全部すっ飛ばして「精神力で何とかしろ」と強要します。精神論=ノープランです。戦前の日本は、アメリカに特攻を仕掛けて玉砕しました。子供が玉砕する前に、試すべきことはいくらでもあります。

2017年10月 6日 (金)

勝手に期待する人たち

 つい先ほど、ノーベル文学賞を日系イギリス人のカズオ・イシグロさんが受賞したとの報道がありました。イシグロさんのことは全く存じ上げませんでしたが、あの『わたしを離さないで』の原作者とのこと。毎年この賞の発表が近づくたび、「村上春樹さん、今年こそ受賞なるか!」という報道が大々的になされ、発表直前には「ハルキスト」と呼ばれる村上さんの熱狂的ファンや村上さんの高校の同窓生が集まって固唾を飲んで発表を見守る、そして村上さんが選ばれなかったと知るや「はぁ~」とため息をつく、そういうシーンがもう十年ほど続いています。村上さん本人が望んでいるかどうかも分からない賞を勝手に期待して、受賞しなかったと知るや勝手に落胆し、「来年こそは、期待しています!」と勝手に期待する人たち、そしてそれを全国に放送するテレビ、ちょっと理解できない。「あんたら、自分の人生ないの?」と思ってしまう。

 世の中には、子どもに過剰期待をする親がいます。子供が望んでいないのに勝手に子どもの目標を定め(「~校に合格しろ!」「最低でも~大ぐらいは卒業して、一流企業に入れ!」「医者になれ!」「弁護士になれ!」など)、子供が結果を出せないことに対して「なんでこんな簡単な問題も解けないんだ!」と怒ったり落胆したりして子供を傷つける親。そういうことが重なった結果、子どもから「そんなに偉そうに言うなら、お前がこの問題解いてみろ!」「そんなに良い大学に行きたきゃ、自分が勉強して行けばいいやん」「子供にテメーの夢乗せるな!」と反論される羽目になります。親が子供に期待するのは当然、問題なのは、それを子供に押し付けてしまうことです。夢や目標はあくまで本人が決めること、親はそれを支えるべきです。親の期待に応えられる子供もいますが、そうでない子供は気の毒です。

 もっとも、「親は何も口を出すな」と言っているわけではありません。例えば子供が宿題をやっていなかったり、宿題の答えを丸写ししたりしている場合は大いに𠮟ってかまいません。それは、その子が約束を破ったり嘘をついているからです。子供が自分の勉強道具を管理していなかったり、勉強部屋を散らかしまくっている場合も、叱ってかまいません。それは、その子がだらしないからです。要するに、親は子供に対して、人としての最低限の常識やモラルを教えさえすればいいのです。それ以上のことは必要ありません。宿題をやっていなかったり答えを丸写ししている理由が単純にサボリなら叱って遊び道具を処分すればいいですし、理由がその子にとってその勉強のレベルが「キツイ」「これ以上頑張れない」のであれば、無理をさせず、子どもの学習環境のレベルを落とすことです。そこで「甘いこと言うな!根性を出せ!」などと言ってしまうと、子供はグレてしまいます(気の弱い子であればうつ病にかかるか、下手したら自殺しかねません)。その子のレベルに合わないことをさせるというのは、普段全然運動しない人に、「今からフルマラソンしろ!」と言っているのと同じことです。できないものはできない。普段運動しない人でも、「とりあえず、まずは1kmだけ走ってみようか」というところからなら、始められます。基本的にそれと同じことです。

2017年9月20日 (水)

目標はいらない

 私が高1の時、初めての個人面談で、担任から「お前、将来はどこの大学のどの学部に進みたい?」と尋ねられ、当時の私は大学なんて東大か京大ぐらいしか知らなかったし、将来の夢も目標も特になかったことから(とりあえず「たくさん稼げれば何でもいいや」とは思っていました)、「まあ、行けるところに行きたいです」と答えたところ、担任に「お前、それおかしいやろ!目標を定めて、そこに向かって努力していくんやろうが!」と叱られました。どうも担任には、私が本気で勉強しようとしていないと誤解されたようです。私は昔から、目標を定めて頑張るということをしていません。漠然とした目標はありますが、そこに向けてひたすら頑張るというよりも、目の前のことをやっていくという感じです。そうやってコツコツやった結果、最終的に大きな結果につながるというのが私の理想です。勉強に関しても、先のことは考えず、とりあえず学力さえ高めれば、そこにはたくさんの選択肢があるのではないでしょうか?別にこの担任のような「目標を定めて、そこに向かってひたすら頑張る!」という生き方を否定するつもりは毛頭ありませんが、それを押し付けられるのはまっぴら御免です。

 私がこの仕事をするようになってよく目にするのは、高すぎる目標に苦しんでいる子供の姿です。目標が高すぎるために、結果が出せないことで自己嫌悪に陥り、次第に勉強意欲を失っていく姿です。客観的に見て良い変化が生まれていても、高すぎる目標のせいで「こんなんじゃダメだ」と否定してしまいます。また、目標が高すぎるせいで、それ以外の選択肢が価値のないものに思えてしまう危険性もあります。そうなってくると、生きづらくなってきます。これは子供に限らず、大人にも共通しているように思えます。

 以前、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』で、歌舞伎俳優の坂東玉三郎さんが「遠くを見ない 明日だけを見つめる」と仰ってました。まさに本質を突いた言葉だと思います。自分を変えるために必要なのは徹底した自己分析です。自分の弱点を分析し、そこを改善すれば結果はおのずとついてきます。そこに目標は要りません。「本質は自分の中にしかない」のです(『弱虫ペダル』金城真護)。

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