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2016年4月12日 (火)

国語は「伝え方」を磨くため

 私は昔から読書感想文が大嫌いでした。というのも、感想なんて「面白かった」「面白くなかった」それしかなかったからです。毎年、感想文は『三国志』、吉川英治の『三国志』を読んだことにして、実際は横山光輝の漫画『三国志』の感想文を書いて乗り切っていました。内容は、それぞれの武将の短い人物評のみ。武将の数が多いので、字数を稼ぐには三国志は最適でした。「趙雲は強くて頭もいいから好き」そういう幼稚な内容を高校生になっても書いていました。

 大学生になって初めて、学校が感想文を書かせる理由は「伝え方を鍛えるため」だということが分かりました。私は典型的な暗記型で、知識量で大学受験を乗り越えたタイプだったので、論理的に話すということが全くできませんでした。大学の授業で議論をするときも、同級生がペラペラと説得力のある話をするのに対して、私は全くうまく話せませんでした。論文の勉強をして初めて、文章の書き方というものを学びました。なぜそう思うのか、根拠と流れを示して相手に納得してもらう、そのための練習が読書感想文なのです。「感想なんて『面白い』以外に何があるんだよ!」と思っていた私は、相手のことを全く想定していない子供でした。実際に、子供の世界では単語だけで会話が成立するので、論理力を鍛える必要はありませんでしたが、社会に出るとなるとそういうわけにはいきません。

 以前、市内のあるガソリンスタンドでヘッドライトの交換をしてもらったのですが、その時の若い店員さんの指示がすべてジェスチャーで非常に困りました。両手を上げて「はん!はん!」(「ボンネットを開いて下さい」という意味らしい)、「そこー」(「白線で止まってください」)、指でコリコリして「おう!、おう!」(「ライト付けてみてください」)。おそらくこの店員さんも昔の私と同じで、伝え方というものを全く意識せずに生きてきたのでしょう。この店員さんを責めることはできません。これは学校の責任です。読書感想文もそうですが、国語を勉強する理由は、「伝え方を身に付けるため」です。そこを子供達にはっきりと認識させないといけないのですが、教師たちは目的を明確に示すわけでもなく、漠然と読書感想文やワークを課題として提出させるだけです。国語の苦手な人はたいていうまく話せません。社会や理科の「理由を説明しなさい」という問題もよく間違えます(というより、書けない)。「国語は全ての学問の基本」というのは、そういう意味です。

 もっとも、試験では相も変わらず「筆者の言いたいことは何か。次の選択肢から選べ」という問題が未だに出題されています。こういう選択肢の問題に対しては、私が高校生の頃から「文章を読んでどう感じるかは人によって異なる。こういう問題は子供の自由な思考力を奪う」と散々言われていました。全くその通りで、重要なのは「なぜそう思った」かをどれだけ説得力をもって説明できるか、です。未だに予備校などでは「小論文やグループ討論は少数派を狙え!」などと言う人がいるそうですが、少数派であろうが多数派であろうが関係ありません。重要なのは、どれだけ説得力があるか、ただそれだけです。相変わらず教育現場は遅れていますが、国際化の流れを受け、こういう選択肢の問題はなくなり、小論文的な文章力を試されるようになっていくでしょう。その点では読書感想文ほど伝え方を磨く素材はありません。ただし、子供には感想文を書かせる目的意識を持たせなければ全く意味はありません。私みたいに字数を稼ぐテクニックだけ身に付けて終わるだけです。そうならないためにも、現場の人間が何のために勉強するかをはっきりと子供に示すべきでしょう。

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