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2017年11月

2017年11月23日 (木)

宿題について

 宿題とは?広辞苑によれば「学校で学習したことの復習または予習のため家庭でやらせる課題。」とのこと。ではなぜ、学校(や塾)は宿題を出すのか?それは反復させて問題を解けるようにさせるためです。例えば、子供に自転車の乗り方をマスターさせるには乗り方を教えるだけではダメで、実際に自転車に乗せて練習させないと乗れるようにはなりません。それと同じで、学校や塾で解き方だけ教わっても実際に解かせてみないと解き方は身につきません。

 「宿題をちゃんとしているのに、テストでは点数がとれない」そういう子供が多々います。宿題をしたふりして実際は答えを丸写ししているだけのどうしようもない子供は別として、きちんと宿題をしているのにテストでは同じ問題が解けない人、そういう人はたいてい、宿題を一回通りしかしていません。一回やってみて間違えた問題を直しをしただけで終わってしまっているため、テストでは点数をとれません。間違えた問題が解けるようになるためには、その問題を自力で解けるようになるまで何回も何回もしなければなりません。直しをして理解しただけでは足りません。「理解」と「解ける」は完全に別物なんです。

 宿題をしないと解けるようにならないのに、なぜ成績の悪い子供は宿題をしないのか?まず第一に、周りに勉強よりも楽しいことがあるため、それに流されているというパターンです。「楽しいこと」とは、現在は主にネットとゲームです。この場合の対処法は簡単、「勉強よりも楽しいもの」を処分すればいいだけの話です。それは保護者にしかできませんし、それができないのであれば、子どもの勉強での成功はあきらめるしかありません。

 第二に、その宿題の難易度がその子のレベルに合っていないというパターンです。宿題というのは基本的に不特定多数を対象に出されるものであるため、そのレベルについていけない子供にとっては、宿題は苦痛でしかありません。この場合は、宿題の中でも自分にできること「だけ」をするしかありません。もし今勉強している範囲より以前でつまづいている場合は、そこに戻ってやり直すしかありません。人にはだれしも、「ここまでなら頑張れる」というラインがあります。そのぎりぎりのラインを拾っていければ、学力は身に付けられます。

 逆に、宿題がその子にとって不要なものであるパターンもあります。ある程度学力が高まれば、自分にとってその宿題が必要か不要かというのは容易に判断できるようになります。自分にとって優先すべき科目の課題があるのに、他の科目からの大量の宿題に時間をとられ、本来やるべきことに時間を割けない。そういう思いをしている人(特に高校生)は多いのではないでしょうか?そういう人は自分の直感を信じるべきです。私自身も、明らかに「これ、無駄だろ」と思う宿題は全くしませんでした。学校からすれば宿題をしていなくても結果さえ出していれば問題はないので、適当にやったふりして答えを丸写ししても特に問題ありません(あくまで、やらなくても「できる」のが前提です)。

 繰り返しになりますが、宿題というのは不特定多数を対象にしているものです。宿題が個々人のニーズに合わないのはむしろ当然なのです。本来、子どもが自主的に復習できるのであれば、学校は宿題を出す必要なんてありません。自分のことは自分にしかわからないのですから、最終的には自分で課題を設定して自分で復習をしていかねばなりませんし、そうしないといつまで経っても学校に依存してしまうことになります。

2017年11月17日 (金)

歴史的思考力について

 どうやら高校で、歴史用語が半減されるかもしれないとのこと。「大学入試で歴史の細かい用語が出題され、高校の授業が暗記中心になっているのは問題だ」からだそう(朝日新聞デジタル版11月16日付)。個人的にはこの改革に大賛成です。日本史も世界史も、覚えることが多すぎて、歴史の流れが分かりにくくなってしまっている。

 そもそも歴史をなぜ学ぶのか?文部科学省によると、世界史は「地理的条件や日本史との関連、歴史的思考力」で、日本史は「主題学習の充実、伝統文化、歴史的思考力を育成」とのこと(ソース)。両者に共通している「歴史的思考力」って何だよ?抽象的でよくわかりませんが、個人的に共感できるのは、「過去の失敗の事実とその原因を知り、同じ間違いを繰り返さないようにするため」という意見です。これから先、私達の社会で大きな問題が起こったとき、過去のケースをサンプルにして、解決策を見つけていくということでしょうか。そう考えると、何年に誰が何したとか、どういう名前の制度であったかなどということは、実に些末なことになります。例えば、「誰が鎌倉幕府を開いたのですか?」というのは大して重要ではなく、「なぜ源頼朝は鎌倉幕府を開いたのですか?」ということの方がよほど重要です。人によって様々な解釈がありますが、一番スタンダードなものは「朝廷から政治権力を奪うため」というもの。鎌倉幕府が成立する以前は、一部の既得権益層(皇族と貴族)だけが政治権力を行使して利益を独占していたため、その既得権益層を排除するために朝廷から政治権力を奪ったということです。この既得権益層とそれを排除しようとする構図、いつの時代のどの国にも起こっていることです。過去のケースをサンプルにして問題を解決していく力を身に付けさせようというのがおそらく、文部科学省の狙いでしょう。

 これからの大学入試、この「歴史的思考力」そのものを問う問題がますます増えることでしょう。「日本の江戸時代の鎖国政策の妥当性について論じた上で、これらかの日本のTPP交渉における方向性を示せ」とか、「過去の歴史的事象から考えて、これからの日本は中国に対してどのように対応していくべきか?」とか、単純だけど考えさせるという問題が増えていくことでしょう。この方が、教える側も学ぶ側も楽しめます。とてもいいことだと思います。

2017年11月16日 (木)

努力について

 「努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力している。」かのベートーヴェンの言葉です(てっきり、『はじめの一歩』の鴨川会長のオリジナルの台詞だと思ってました)。勉強にしろスポーツにしろ、努力なしに成功することはできないということでしょう。ただ、この努力という言葉、人によって内容の解釈が大きく異なっています。辞書によれば、「努力」とは「目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。」とのこと。ある人は子供に対し、「寝る間も惜しんで勉強しろ!」「苦しくても歯を食いしばって努力しろ!」と言っていました。努力の定義に従えば、この方の解釈が一番近いのかもしれません。そうなると、私自身は「努力」はできないですね。

 私自身、大学受験のときは、自分では努力したと思っております。ただ、「寝る間を惜しんで」とか「歯を食いしばる」とか、そういう思いは全くしていません。自分がやるべきことをやっていたら、いつの間にか時間が過ぎていた、そういう感覚です。要するに、いつの間にか勉強に没頭していた、ハマっていたという感覚です。なぜハマれたかというと、自分で立てた戦略が自分にとって無理のないものだったからです。疲れたらすぐに休みましたし、眠くなったら眠りましたし、遊びたくなったらすぐに遊びました。仮に当時、眠いのを我慢して勉強していたり、苦しいのを(この場合、脳にかかる負荷が大きい難問でしょうか)我慢して歯を食いしばって勉強したり、遊びを一切シャットアウトしていたら、間違いなく途中で挫折していたと思います。人にはできることとできないことがあります。結果から逆算して本人にとってオーバースペックなことばかりしていたら、間違いなく潰れてしまうでしょう。その時々に自分にできることを少しずつ積み重ねていくことだけです。そういう戦略は、自分で立てなければなりません。

 日本人は努力が大好きです。努力なしに成功できないのは間違いないでしょう。ただ、努力の方向性に関しては、未だに戦前のメンタリティがそのまま残っている印象です。つまり、圧倒的なアメリカとの戦力差を「気迫でなんとかしろ!」というもの。戦前のメンタリティが残っている人は、他人が壁にぶつかっているのを精神力で超えるよう強要してきます。子供に「寝る間を惜しめ」とか「歯を食いしばれ」とか言っている人もしかり。そういう精神論を強要された子供たちが言うとおりに勉強するかと言えば、実際にはほとんどしないでしょう。精神論以前に、家が勉強に集中できない環境であったり、そもそも勉強の難易度がその子供に合っていなかったり、子どもの食生活や睡眠時間が乱れていたり、子供が運動不足であったり、先に改善すべきことがいくらでもあるのに、それらを全部すっ飛ばして「精神力で何とかしろ」と強要します。精神論=ノープランです。戦前の日本は、アメリカに特攻を仕掛けて玉砕しました。子供が玉砕する前に、試すべきことはいくらでもあります。

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