高校受験

2016年2月11日 (木)

西高とそれ以外との差

 以前に「高校入試で飾西以上はそれほど学力に違いはない」と書きましたが、じゃあ実際に定期テストで西高志望の生徒と飾西志望の生徒の間に点数に差がないかと言うと、そんなことはありません。しかし実際のところ、学力そのものにそれほど差を感じません。飾西志望の生徒も本当に頭のいい子が多いです。では何が違うかと言うと、西高に受かる生徒はミスを絶対にしない、そして易しい問題の取りこぼしが全くないという点です。点数の悪い人ほど「ミスやからしゃあないw(理解はしとるから大丈夫!)」と考えますが、西高志望の生徒は「ミスした、最悪…」と考えます。その意識の違いです。ミスをするということは、仕事ができないということです。社会に出て働きだすと、ミスをしたらその時点で会社をクビです。スポーツでもミスをした時点で負けます。現在の公立中学のテストも、内容はたいして難しいことを聞いていません。最低限の知識と解法を身に付けた上で、ミスをするかしないかを試しているに過ぎません(逆に言えば、その最低限の知識と解法すら身についていない人は、勝負の土俵にすら立っていません)。

 少し気になったのは、この入試直前期になってやたらと難しい問題(難関私立などの過去問)に手を出している人が多い点です。そしてそのほとんどは女子です。中3の2学期以降、女子の成績はおおむね下がります。それは女子の学力が落ちたわけではなく、今までサボっていた男子が勉強を始めた結果、全体の平均点が上がるからです。男子はそのまま波に乗って入試まで突き進むケースが多いですが、反して女子は不安から新しい問題集ややたらと難しい問題に手を出してドツボにはまっていきます。西高といえども、入試で100点取る必要はありません。捨て問はさっさと切り捨てることが必要です。難しい問題をするのが悪いとは言いませんが、その前提となるものが固まっていない状況で手を広げるのは自殺行為です。学校のワークはどの問題でも解ける、中学で習った漢字、英単語・熟語は全て書ける、定期テストで間違えた問題は全て解ける、そういう状態にしていないといけません。真面目で不器用な女子を見ていると、本当に気の毒になります。要領だけで受かる男子になど負けてはいけません(しかしそういう男子は高校に入って落ちこぼれますが)。女子も要領よくなりましょう。

2015年9月 7日 (月)

教科書の重要性と問題集について

 公立中学のテストにおいて、一通り問題集をこなして、復習もしたのに、テストではいい点数がとれない、そういうケースが多々あります。そういう場合、たいていは問題集には載っていない問題、あるいは問題集とは違う聞き方をしている問題です。例えば、歴史などでは持統天皇や藤原京が出題されたり、理科では粉塵爆発や山中伸弥教授、科学者のワトソンやクリックが出題されたり、国語では「如月は旧暦の何月か?」という問題が出題されたり、英語では「tragedy」という単語が出題されたりします。あるいは、歴史において「なぜオランダだけ貿易が許されたのか?」「なぜ公地公民制度は崩壊したのか?」など、理由を問う問題がここ数年は多々出題されています。「こんなの問題集に載ってねえよ!」と怒っても仕方がありません、それらはちゃんと教科書に載っています。

 「問題集だけやっとけば大丈夫」は希望的観測に過ぎません。「これさえあれば定期テスト対策は十分!」を謳い文句にしている問題集が多々ありますが、信用してはいけません。そもそも問題集というのは、過去によく出題された問題を体系的にまとめたものに過ぎません。特に公立中学の場合、基礎固めには非常に有益ですが、それ以上を目指すには不十分なものが多いです。ゆとり教育導入以降はカリキュラムが減ったため、問題集レベルの問題では差がつきにくくなった結果、より教科書の重要性が増えました。教科書を軽視している限り、点数は上がらないでしょう(中学受験と大学受験は別です)。

 もっとも、教科書に載っていない問題が出題されることもあります。例えば地理のメルカトル図法や正距方位図法の名称等です。「教科書にも載ってねえよ!」と怒っても仕方がありません。それらは学校の授業でちゃんと説明しています。「もう塾でやったわ」と言ってきちんと授業を聞かず、ノートをとらない方が悪いのです。要は、学校をなめてはいけないということです。

2015年4月 3日 (金)

姫路西高等学校について 現在編

 ここ数年、西高の生徒を担当して思うことは、今の西高のカリキュラムは私達の頃より遥かにハードだということです。公立高校の入試問題は私達の頃より難しくなりましたし、内申点も重視されるため、副教科にも力を入れなければなくなりました。入学するだけでも大変になったのですが、入学してからが更に大変です。カリキュラムの速度が私達の頃とは比べ物にならないくらい速くなりました。相変わらず難易度は高いままでこの速度ですから、ついていけない生徒が出てくるのも当然です。世代が下になるにつれてどんどん愛校心が薄れていっている印象ですが、その原因はこのハードさと無縁ではないでしょう。もっとも、この体制で実績をあげているのも事実なので、これらかもこのハードさが緩まることはおそらくないでしょう。これから西高を目指す人はその辺りを覚悟しておかねばなりません。

 私達の頃と比べて良くなった点がいくつかあります。まず、小テスト類が増えたことです。私達の頃には英単語や古文単語の小テストなどはまったく行われませんでした。それだけ基礎を重視するようになったということでしょう。とても良いことだと思います。また、これはあくまで聞くかぎりですが、教師のパワハラ的発言がほとんどなくなったことです。私達の頃の教師たちは、おそらく悪気はなかったのでしょうが、意識が高すぎるせいか、生徒が質問に答えられないと結構ボロクソにけなしてきました。あと、校舎が非常にキレイになりました(私達からすれば非常に腹立たしいことですが)。私達の頃は「東高の校舎めっちゃキレイ、西高めっちゃボロい」だったのですが、今や完全に逆になってしまいました。

 色々と変わった部分もありますが、基本的な校風はほとんど変わっていない印象です。ただ、カリキュラムがハードになった分、生徒の学力層が二極化されています。現在西高を目指している中学生は、合格できるか心配でしょうが、むしろ合格してからの心配をした方がいいでしょう。入学してから下位層に入らないように、今のうちから勉強に対する耐性をつけておきましょう。

2014年10月23日 (木)

公民各論 法律についての誤解

 先日、ある公立中学生の公民の授業中のことですが、生徒が「法律がなければ世の中犯罪者だらけですよね。」と言いました。私「誰がそんなとんでもないこと言うたん?」生徒「いや、前に行ってた塾の社会の先生が言うてましたよ。『法律がなければ、世の中犯罪者だらけや。だから法律があるんや。』って」。この生徒が以前に通っていた塾は、姫路で最大手の有名な塾です。こんなとんでもないこと言うからには、その講師はバイトか、あるいは新人かなのかと思いきや、結構なベテラン講師だそうです。別の生徒達にも(高校生含む)「法律は何のためにあるでしょう?」と質問すると、結構な割合で「犯罪を防ぐため」と答えます。さすがに学校の教師でこんなことをいう人はいないとは思いますが、塾にはどうもこういうトンデモ講師が結構な割合でいるようです。

 結論から言えば、法律は国家権力を制限するためにあります。法律がなければ犯罪者だらけというのはメチャクチャな理屈です。法律があってもそれを実際に取り締まる者(この場合、警察、検察、裁判所になります)がいないと実効性はありません。簡単なことです。現金100万円持っている人が強盗犯に向かって、「強盗は刑法で禁止されている。だからやめなさい。」といったところで聞くわけありません。犯罪素養のある人が強盗の実行に着手しないのは、強盗しても捕まる可能性が高いからです。110番すると警察が犯罪者を捕まえてくれるから犯罪を防げるのです。あるいは犯罪が起こってしまっても、警察は被害者から事情聴取をし、捜査をして犯人を逮捕し、検察官が起訴して裁判所がしかるべき罰を与える、これら国家権力が犯罪者を捕まえて裁いてくれるから、国家権力に対する信用があるから、犯罪素養のある人は「やっても捕まる」と考え、犯罪行為に至らないのです。日本は先進国の中でも比較的犯罪が少ないですが、それは犯罪検挙率が高いからです(しかしここ10年で検挙率は急激に低下しています。)。悪いことをすれば国家がきちんと裁いてくれる、その信用があるから安全なのです。例えばロサンゼルスや南アフリカなどは犯罪率が異常に高いですが、じゃあこれらの州や国に法律がないかといえば、そんなことはありません。むしろ立派な法律があります。しかし、犯罪検挙率が低いため、犯罪者は「やってもばれない」と考えて犯罪に走るのです(勿論、他にも諸々の要因はありますが、ここでは割愛します)。つまり、あくまで犯罪を防ぐのは国家権力であるということです。

 では、なんのために法律があると言うと、法律は国家権力を制限するためにあります。国家は権力を持っています。権力は(合法的に)人を逮捕し監禁し、抵抗する者には暴力を加え、牢屋にぶち込むことができます。犯罪者や外敵から国民を守るためには権力は必要です。しかし、歴史的に明らかなように、権力というものは往々にして暴走しやすくなります。例えば法律のない世界で、公務員の給料を上げるために政府が「明日から所得税を80%にします。」と発表したとすれば、大多数の労働者は「ふざけるな!」となるでしょう。しかし相手は国家権力です。政府は税務署員や警察を使って無理やりあなたの財産を奪ってきます。裁判所に訴えても、法律、つまりルールがないため、裁判所はどうとでも判決を下すことができます。裁判官の給料を決めるのは政府なので、裁判官は政府に有利な判決を下します。あるいは、例えばある人が強盗殺人を犯したとしても、その父親が有力者で政府に大金を払った結果、無罪になります(いわゆる「免罪符」です)。一方、貧乏人の強盗殺人犯は金がないため、死刑にされます。こういう不公平や不条理に対し「こういうやり方はおかしい!」と声を上げると、政府は反逆分子とみなして逮捕し牢獄にぶち込みます。犯罪を定義した法律がないから、どんな行為でも犯罪にできます。こうして政府に都合の悪い人々はどんどん牢獄に入れられます(「天安門事件」や「文化大革命」など。最近では香港の民主化デモやウイグル・チベットへの弾圧など。みんな中国ですね。中国にも一応法律はありますが、有名無実化しています。)。これらは実際にあったことです。つまり、法律がなければ、権力側はやりたい放題だというわけです。こうして力のあるもの同士が協力し合い、自分たちの都合のようように国を動かした結果、富は偏在化し、完全な不平等社会が生まれます。かつてルイ14世は「朕は国家なり」と言いました。つまり、「俺様が権力だ」ということです。そこに法はありません。王様が自由にルールを決められたのです。だから豪華なヴェルサイユ宮殿を立てるために国民から税金をむしり取り、戦争ばかりして財政状況を悪化させることも許されました。国民は逆らったら殺されるから反対の声を上げることもできません。しかしその我慢が限界に達し、またロック・モンテスキュー・ルソーなどの啓蒙思想家の影響で、市民による革命が起きました。1688年、イギリスで名誉革命が起こり、権利章典が制定されました。1776年、アメリカで独立戦争が起こり、合衆国憲法が制定されました。1789年、フランスでフランス革命が起こり、人権宣言が発表されました。彼ら市民は何と戦ったかというと、それは国家権力です。彼らは国家権力に勝利して、権利章典、合衆国憲法、人権宣言を制定しました。これらはすべて法です。その内容は一言でいえば、「国(権力)は、この法を犯してはならない」というものです。つまり法とは、その権力に制限をかけるためにあるのです。個々の犯罪者を取り締まるために法があるのではなく、その取り締まる側を取り締まるために存在するのです。刑事訴訟法で裁判の細かいルールが定めてあるのは、警察の行き過ぎた捜査(詳しくは足利事件や袴田事件をご参照ください。)や裁判所の軽はずみな判断を防ぐためにあるのです。先程の例であれば、国民の財産を守るために税法があり、「所得税は~%まで」と制限をかけているのです。裁判で不公平を生じさせないために、贈収賄行為が刑法で規制されています。国のやり方を自由に批評させるために、憲法21条で表現の自由及び知る権利が保障されており、国家権力は「公共の福祉」(憲法12条・13条など)」に反しない限り、それを制限することができません。また、刑法には「~をした者は、~年以上の懲役に処する。」というたくさんの規定が置かれていますが、これは国家権力が好き勝手に国民を逮捕して裁判にかけることがないように、法律によって国家権力が逮捕して裁判できる機会を限定しているのです。逆に言えば、基本的には刑法に書かれている行為以外の行為は何をやっても自由ということです。

 ちなみに、憲法と法律の違いがよく分かっていない人も結構いるので説明しておきます。法律を作っているのは我々が選挙で選んだ代表者です。日本でいえば国会議員や地方議員です。彼らが法律(地方は条例)を作っています。彼らが法律を作り、権力を制限します。しかしこのシステムには欠陥があります。その代表者たちが権力側にすり寄って、権力者に都合のよい法律ばかりを作る可能性があるのです。先程の例でいえば、「所得税は一律80%とする。」「強盗殺人犯は国に1億円支払えば無罪とする。」という法律を作ってしう可能性があるのです。権力側からすれば「お前らの選んだ代表者が作った法律なんだから、問題ないだろ?」というところです。これはマズいということで、「法律によっても犯せないルール」を定めました。それが憲法です。不条理な法律も、それが憲法に反すれば無効というルールを定めたのです(これを違憲審査制といいます)。判断するのは裁判所です。こうして国家権力を権力側(行政)、代表者による議会(立法)、裁判所(司法)に分けて、それぞれ監視させることで、国民の自由を守っているのです(これを三権分立といいます。)。法律と憲法という二段構造により、権力から国民の自由を国家権力から守っているのです。

 これで「法律がなければ世の中犯罪者だらけ」という理屈がいかにおかしいかということが理解できたかと思います。こういう嘘を平気で言う講師は、将来子供が恥をかくということに対する責任感が全くありません。そのためにも、やはりしっかりと教科書を読むことをお勧めします。教科書は高い教養のある人たちが子供に向けて推敲に推敲を重ね、検定にもパスした末に出版されたものです。教科書に勝るテキストはありません。

2013年7月23日 (火)

姫路西高等学校について

 私の母校である姫路西高等学校について。なぜか「西高に行っている」というだけで「すごい!」と言われる傾向にあるのですが(未だに「全員が全員、有名大学に行く!」というとんでもない誤解をしている人もいますが)、実際に「すごい!」のは一部の上位層だけです。入学時点ではみんな横一線で「すごかっ」たのでしょうが、カリキュラムが始まると学力差が天と地ほど開きます。その結果、有名大学に行けるのは上位2~3割、真ん中は滑り止めの関関同立行き、底辺になると姫路独協や姫工大(現:兵庫県立大学)行きとなります。

 西高に受かるのは決して難しくはありません。西高は、真面目にやるべきことさえきちんとこなしておけば絶対に受かる学校です。独自の入試問題を出題してくる私立と異なり、西高の入試問題は兵庫県統一の簡単な問題です。西高受験生も別所受験生も受ける問題は同じです。塾に通っていないと解けないような問題ではありません。なので、教科書の内容をしっかりと理解し、学校の宿題をきちんとこなして復習をしっかりしていれば絶対に受かります。私立の問題のように「見たこともない問題」や「その場での発想力」が求められることは基本的にありません。なので、必要なのは難関私立のような「どれだけ難問を解いてきたか」ではなく、「どれだけサボらずに、やるべきことをこなしてきたか」です。

 逆に言えば、西高に入ってからみな苦労する羽目になります。問題の難易度が一気に上がり、これまでのぬるま湯のようなレベルに浸かりきっていい気になっていた生徒は一気に地獄に叩き落されます。私立中学は中学生のカリキュラムを2年で終わらせますが、公立中学校は3年かけて終わらせます。しかも、私立は高いレベルの問題を中1の段階から解かせていますが、公立では全国平均的な標準レベルの問題しか取り扱いません。なので、西高の生徒は入学時点で、私立の高校生たちよりもすでに1年遅れているうえ、難しい問題に全く慣れていないのです(どれくらい差があるか知りたければ、灘や白陵の入試問題を解いてみるといいでしょう。もっとも、私立の高校生も「すごい!」のは上位層だけで、下位層は悲惨な状況です)。そのため西高は、私立に追いつくために、ハイレベルなカリキュラムをハイペースで進めていきます。そしてカリキュラムについてこれない生徒は問答無用で置いていかれます。

 西高には姫路市内の各公立中学校のトップ10の生徒たちが集まってきます。みんな口にこそ出しませんが、おそらく「俺(私)って、天才!」と思っていたことでしょう。私もたいがいのぼせあがっておりました。そういう人達が最初の中間テストで厳しい現実を突き付けられ、あまりのショックに自信を喪失し、勉強する意欲を喪失してしまいます。かくいう私もその一人で、中学時代は常にトップ10入りで1位を取ったことも何度もありましたが、西高の最初の中間テストの順位は400人中240番台、期末テストに至っては280番台という酷い有様で、「俺ってこんなもんやったんや・・・」というショックに打ちひしげられました。このまま卒業までズルズル行ってしまう人もいれば、途中で「このままじゃ終われねえ!」と奮起する人もいます。

 西高の授業は基本的に予習先行型です。先に生徒達に教科書を読ませて問題を解かせておいて、授業でその答え合わせと解説をするという形式となります。なので、授業では基本はまったくと言ってよいほど教えてくれません。私を含め、大多数の生徒はこの予習先行スタイルにはまったく合わなかったのではないでしょうか?私達のほとんどは中学時代、中学校や塾で基本を説明してもらい、基礎と基本をしっかり固めたうえで、応用的な部分を自力で解いていったからです。西高に入ると、今までの勉強スタイルの矯正を余儀なくされます。自分で教科書を読んで基本を固めていく、中学時代からそういうスタイルに慣れている生徒が上位になっていました。現在でも、塾にも行かず学校の宿題と教科書の読み込みしかやっていないのに、いつも1位になっている中学生がいることでしょう。そういう人たちが西高でも上位を独占していました。

 西高の授業のレベルはかなり高いです。レベルが高いというのは、教師の教え方が上手いという意味ではなく、「教師の言ってることが難しい」という意味です。西高は「売り」が数学だけあって、数学は分かりやすかったです。予習・復習を全くしなかった私ですら、数学の授業だけはよく理解できました。対して、個人的にとりわけ苦労したのが現代文と理科(化学、生物)でした。基本的に西高の理科教師は授業中に専門用語をぺらぺら羅列するばかりなので、何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。私が1年生のころですが、化学の教育実習生の授業のほうが化学教師より分かりやすいと評判になり、その噂を授業中に聞いた化学教師が「(私の)授業が分からんのはお前らが馬鹿やからや!」とブチギレたのは有名な話です。そして現代文、おそらく西高の生徒の大多数が現代文で苦労したのではないでしょうか?なぜなら、公立中学の国語の問題は基本的に「文章から抜き出せ」ば解けるものばかりなので、私たちは文章を作る訓練を全くしないまま高校に上がるのですが、高校の現代文の問題は単純な「抜き出し」だけでは正解できない、文章作成能力がないと解けないものばかり出題されます。そして、現代文教師は「生徒に文章作成能力がある」という前提で授業を進めます。なので、授業中に質問に答えられないと「何が分からへんねん…(ふー)」と憐れむような目でため息をつかれたり、「お前、ほんまに分からへんの?これが?ほんまに?」などとネチネチ言われたり、「何が分からへんねん!ボケ!!カス!!」と罵られたりしました。授業の必要性を全く感じなかったのが英語です。英語の授業では、文法を解説してもらったという記憶が全くありません。授業終わりに「予習して来いよー」と宿題を出され、次回の授業で「よし、答え合わせするぞー」といって答え合わせと解説をする、ただその繰り返し。正直、「自分で答え合わせした方が早くね?」という感じでした。

 授業に関しては不満点ばかりですが、良い所もありました。それは、西高は有名大学に合格するために必要な勉強の方向性をきちんと示してくれたことです。入学時に学年主任から言われたのは、「カリキュラムについて来れれば、阪大以上は保証する」とのこと、それは間違いなかったと思います(その「ついていく」のが大変なのですが)。もっとも、西高には昔から「国公立一神教」という妙な宗教があり、私のような私立文系は異端者として迫害されます。早慶狙いの人は、ほぼ自力で頑張らねばなりません。また、先輩後輩含めて、西高の生徒達はみないい奴ばかりでした。中学時代の同級生たちと比べて思ったのは、やはりそれなりに育ちがいいのか、「みんな大人だなあ」ということでした。中学時代に同じように勉強して結果を出してきたという境遇だけに、気が合うのはある意味当然かもしれません。また、部活動は、どの部も割とハードにやっていました。私立では運動時間が少なすぎる学校が非常に多く、それが原因でストレスを抱え込む生徒が非常に多いのですが、西高ではその心配はあまりありません。ここは非常に良いところだと思います。

 今思い返してみても、授業に関しては不満が多いです。自分が教える立場になってより強く思うことは、「もっと基本をしっかり教えて欲しかった」ということです。もっとも、「じゃあ行かない方が良かったのか?」と問われれば、そんなことはありません。西高に行って一番良かったことは、「お前の実力なんてこんなもんだ」とはっきり認識させてくれたことです。そこを乗り越えられるかは、本人の器次第です。教師の意識が非常に高いので、本気の人にはきちんと応えてくれる学校であることは間違いないです(現在の西高についてはこちらに)。カリキュラムついていくのが大変ですが、挑戦してみる価値はあります。