その他

2017年11月23日 (木)

宿題について

 宿題とは?広辞苑によれば「学校で学習したことの復習または予習のため家庭でやらせる課題。」とのこと。ではなぜ、学校(や塾)は宿題を出すのか?それは反復させて問題を解けるようにさせるためです。例えば、子供に自転車の乗り方をマスターさせるには乗り方を教えるだけではダメで、実際に自転車に乗せて練習させないと乗れるようにはなりません。それと同じで、学校や塾で解き方だけ教わっても実際に解かせてみないと解き方は身につきません。

 「宿題をちゃんとしているのに、テストでは点数がとれない」そういう子供が多々います。宿題をしたふりして実際は答えを丸写ししているだけのどうしようもない子供は別として、きちんと宿題をしているのにテストでは同じ問題が解けない人、そういう人はたいてい、宿題を一回通りしかしていません。一回やってみて間違えた問題を直しをしただけで終わってしまっているため、テストでは点数をとれません。間違えた問題が解けるようになるためには、その問題を自力で解けるようになるまで何回も何回もしなければなりません。直しをして理解しただけでは足りません。「理解」と「解ける」は完全に別物なんです。

 宿題をしないと解けるようにならないのに、なぜ成績の悪い子供は宿題をしないのか?まず第一に、周りに勉強よりも楽しいことがあるため、それに流されているというパターンです。「楽しいこと」とは、現在は主にネットとゲームです。この場合の対処法は簡単、「勉強よりも楽しいもの」を処分すればいいだけの話です。それは保護者にしかできませんし、それができないのであれば、子どもの勉強での成功はあきらめるしかありません。

 第二に、その宿題の難易度がその子のレベルに合っていないというパターンです。宿題というのは基本的に不特定多数を対象に出されるものであるため、そのレベルについていけない子供にとっては、宿題は苦痛でしかありません。この場合は、宿題の中でも自分にできること「だけ」をするしかありません。もし今勉強している範囲より以前でつまづいている場合は、そこに戻ってやり直すしかありません。人にはだれしも、「ここまでなら頑張れる」というラインがあります。そのぎりぎりのラインを拾っていければ、学力は身に付けられます。

 逆に、宿題がその子にとって不要なものであるパターンもあります。ある程度学力が高まれば、自分にとってその宿題が必要か不要かというのは容易に判断できるようになります。自分にとって優先すべき科目の課題があるのに、他の科目からの大量の宿題に時間をとられ、本来やるべきことに時間を割けない。そういう思いをしている人(特に高校生)は多いのではないでしょうか?そういう人は自分の直感を信じるべきです。私自身も、明らかに「これ、無駄だろ」と思う宿題は全くしませんでした。学校からすれば宿題をしていなくても結果さえ出していれば問題はないので、適当にやったふりして答えを丸写ししても特に問題ありません(あくまで、やらなくても「できる」のが前提です)。

 繰り返しになりますが、宿題というのは不特定多数を対象にしているものです。宿題が個々人のニーズに合わないのはむしろ当然なのです。本来、子どもが自主的に復習できるのであれば、学校は宿題を出す必要なんてありません。自分のことは自分にしかわからないのですから、最終的には自分で課題を設定して自分で復習をしていかねばなりませんし、そうしないといつまで経っても学校に依存してしまうことになります。

2017年11月16日 (木)

努力について

 「努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力している。」かのベートーヴェンの言葉です(てっきり、『はじめの一歩』の鴨川会長のオリジナルの台詞だと思ってました)。勉強にしろスポーツにしろ、努力なしに成功することはできないということでしょう。ただ、この努力という言葉、人によって内容の解釈が大きく異なっています。辞書によれば、「努力」とは「目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。」とのこと。ある人は子供に対し、「寝る間も惜しんで勉強しろ!」「苦しくても歯を食いしばって努力しろ!」と言っていました。努力の定義に従えば、この方の解釈が一番近いのかもしれません。そうなると、私自身は「努力」はできないですね。

 私自身、大学受験のときは、自分では努力したと思っております。ただ、「寝る間を惜しんで」とか「歯を食いしばる」とか、そういう思いは全くしていません。自分がやるべきことをやっていたら、いつの間にか時間が過ぎていた、そういう感覚です。要するに、いつの間にか勉強に没頭していた、ハマっていたという感覚です。なぜハマれたかというと、自分で立てた戦略が自分にとって無理のないものだったからです。疲れたらすぐに休みましたし、眠くなったら眠りましたし、遊びたくなったらすぐに遊びました。仮に当時、眠いのを我慢して勉強していたり、苦しいのを(この場合、脳にかかる負荷が大きい難問でしょうか)我慢して歯を食いしばって勉強したり、遊びを一切シャットアウトしていたら、間違いなく途中で挫折していたと思います。人にはできることとできないことがあります。結果から逆算して本人にとってオーバースペックなことばかりしていたら、間違いなく潰れてしまうでしょう。その時々に自分にできることを少しずつ積み重ねていくことだけです。そういう戦略は、自分で立てなければなりません。

 日本人は努力が大好きです。努力なしに成功できないのは間違いないでしょう。ただ、努力の方向性に関しては、未だに戦前のメンタリティがそのまま残っている印象です。つまり、圧倒的なアメリカとの戦力差を「気迫でなんとかしろ!」というもの。戦前のメンタリティが残っている人は、他人が壁にぶつかっているのを精神力で超えるよう強要してきます。子供に「寝る間を惜しめ」とか「歯を食いしばれ」とか言っている人もしかり。そういう精神論を強要された子供たちが言うとおりに勉強するかと言えば、実際にはほとんどしないでしょう。精神論以前に、家が勉強に集中できない環境であったり、そもそも勉強の難易度がその子供に合っていなかったり、子どもの食生活や睡眠時間が乱れていたり、子供が運動不足であったり、先に改善すべきことがいくらでもあるのに、それらを全部すっ飛ばして「精神力で何とかしろ」と強要します。精神論=ノープランです。戦前の日本は、アメリカに特攻を仕掛けて玉砕しました。子供が玉砕する前に、試すべきことはいくらでもあります。

2017年4月19日 (水)

自主退学もあり

 進学校に合格したものの学校のレベルについていけず行き詰まってしまった場合の対処法について。進学校に進むと、カリキュラムの進行が速くなるうえ、難易度も高まり、かつ宿題の量も増えます。宿題を一通りこなすだけで精一杯という人も多いでしょう。その場合、復習にかける時間がなくなるため、結局応用レベルはおろか基礎や基本すら固まらないという悪循環に陥ります。こういう場合、勉強の難易度を落として、まずは基礎・基本だけを固めなければなりません。最初から難易度の高いものは捨て、余った時間を復習に回すのです。このやり方だと上位は狙えませんが、落ちこぼれることもありません。

 ただ、もし子供が私立中学に通っている場合、自主退学した方が早い場合もあります。成績は悪いけど宿題はきちんとしている人、その人は要領が悪いだけなので、成績が上がる可能性は大いにあります。対して宿題を全くしない人は、そのままその学校に居続けても学力が上がることはまずありません(授業を聞いただけで問題が解けるようになることはあり得ません)。それどころか、上位層との学力格差がますます広がり、高3時には悲惨な状態になっています。宿題を全くしないということは、その学校のカリキュラムがその子にとってキツイということです。その学校に向いていなかったのです。もしそのまま学校に居続けさせると、精神的ストレスから体調を崩し、うつ、ひいては自殺に至るということも十分にあり得ます。そうなる前に、さっさと公立に戻って基礎からやり直すべきです。

 実際、後者のような生徒に対してはごく稀ですが、自主退学することを勧めることもあります(成績の酷さに加えて、精神的に不安定な人に対して勧めています)。どうも本人や親には、やる気を出させるための方便としか解釈されないことが多いですが、私としては割と真剣に提案しています。(有名な)私立に合格する時点で素晴らしい才能があるのは間違いないのですから、公立に戻ればいくらでもやり直しがきくのですが、「辞めたら恥ずかしい」という見栄やプライド、あるいは「有名校じゃないと有名大学や医学部には行けない」という幻想のせいで、決断できません。そしてそのままろくに勉強もしないままズルズルと学校にしがみついた結果はFラン大学行きです。

 高校生になってしまうと自主退学するのが難しくなりますが(独学で高認受けるのもアリですが、よほど自制心のある人じゃないと厳しいでしょう)、中学生の間だといくらでもやり直しがききます。辞めるなら、なるべく早い方がいいです。その決断のできるのは、親だけです。

2016年11月11日 (金)

本について

 以前にも書きましたが、「国語の成績を上げるために」本を読めという意見には反対です。本を読んだからといって国語の問題が解けるようになるわけではありませんし(国語の成績を上げたいならば本を読むよりも文章を書く練習をするべきです)、そもそも本というのは「自分が読みたいから」読むものです。親が「本ぐらい読みなさいよ!」と言ったところで子供が読むはずもありません。「成績を上げるため」という不純な動機が、かえって子供の読書嫌いを加速させます。私自身、古文に漢文にしろ、あるいはクラシック音楽にしろ美術にしろ、ある程度年齢を重ねてようやくその面白さや素晴らしさが少し理解できるようになりましたが、学生時代は全く面白いと思いませんでした。漫画や映画やゲームの方が遥かに面白かったのに加え、学校教育がそれらを強制することがかえって余計に私の興味を遠ざけました。

 実際、本は面白いものです。映画や漫画やゲームは面白いですが情報が一方通行なのに対し、本は自分の想像力を膨らませることができます。実際、どんなに感動した映画でも3回目以降になると感動が薄れますが、本は何回読んでも飽きません。本は読むたびに新たに想像性が掻き立てられるからです。ただ、それは本人が感じることであって、周りが強制することではありません。もし私が友達から「この本、面白かったよ。あんたも読んでみたら?」と言われれば読むかもしれませんが、「役に立つから、読めや!」と言われれば絶対に読みません。

 子どもが興味をもって自分で選んだ本であれば、それがライトノベルであろうがエロ小説であろうが、親は口を出してはいけません。ゲームにはまるよりマシです。親や学校はとにかく子供の将来に役に立ちそうなもの、特に古典を勧めますが(国語の入試問題で作品名と作者名が出題されたりするから)、これは非常にリスクが高いです。自分達と全く価値観の異なる時代の人々の感性と子供の感性が合うはずがありません(実際は古典は「ああ、時代が変わっても人間ってこうだよなあ」という共感を引き出してくれますが、子供には理解しにくいでしょう)。小学生が太宰治の『人間失格』や夏目漱石の『こころ』を読んで、「う~ん、分かるわあ」という方が怖いです。私が高校生の頃、「そろそろ本ぐらい読まないとマズいよな…」と急に思いたって選んだのがページ数の非常に少ないヘミングウェイの『老人と海』、全然面白くなかったですが読み終えることができ、調子に乗った私は「次はもっと大作に挑んでやろう!」とドストエフスキーの『罪と罰』を購入、死ぬほどつまらないうえに文章が難しく全く読み進められず、3日も経たぬうちに断念しました。「役に立つから」とか「そろそろ高校生だから」とか「ドストエフスキー理解できる俺って超カッコいい!」などという不純な理由で読んでも長続きしません。「面白そうだから」「興味があるから」それが一番大事です。ちなみに少し前に、某中学受験塾の模試の国語の問題が小説『聖の青春』(大崎善生)から出題されていました。この小説は、若くして亡くなった天才棋士・村山聖さんの生涯を描いた小説なのですが、その内容があまりに面白かったので早速アマゾンで注文し、一気に読んでしまいました。松山ケンイチさん主演で映画化もされましたが、かなりお勧めです。未見の人は是非。

2016年7月29日 (金)

人権作文について

 毎年中学生用の課題として出される人権作文ですが、「人権」なんて言ったって子供にはぴんと来ないのではないでしょうか?かつては、政府に都合の悪い書物は読むのを禁止され(知る権利の侵害)、身分制度により自分のやりたい職業にもつけず(職業選択の自由の侵害)、好きな相手とも結婚できず(婚姻の自由の侵害)、政府の批判をすれば警察に捕らえられ(表現の自由の侵害)、まともに裁判を受けられず(裁判を受ける権利の侵害)、選挙権すら認められない、そのような時代がどの国にもありました。しかし現在では人権は厚く保障され、人々は何不自由なく生活できるようになりました。そういう現状で、人権の大切さを子供に認識させるのはなかなか難しいことです。

 ただ、子供にも人権の制約がないわけではありません。子供には飲酒や喫煙の自由がありません(「~の自由」は人権のうち「自由権」に含まれます)。しかしこれらを制約するのは子供の健康を守るためであり、その制約には合理的な理由があります(これを「公共の福祉」といいます)。これらの人権は、子供を守るという利益に比べたら、それほど重要な権利ではありません。あるいは、例えば医療ドラマを見て感動した中学生が「よーし、明日から医者として働くぞ!」と思っても医師免許がないので医者として働けません。この場合、医師の免許制度は中学生の「職業選択の自由」を制約していることになりますが、医療知識のない人が患者の治療をしても効果がないどころか、患者が死んでしまうことになるため、この制約には理由があります。しかし、例えば、部活動で試合中にミスをして顧問にビンタされた、こういう場合、その生徒の「身体の自由」は侵害されていることになります。顧問からすれば「生徒を教育する権利(教育権)」の範囲内だ(いわゆる「愛のムチ」)と反論することになるでしょうが、ではこのビンタは教師の「教育権」の範囲内と言えるのか、「身体の自由」この場合「殴られない自由」は顧問の「教育権」により制約されるだけの合理的な根拠があるのか?ビンタが教育権の範囲外であるならば、それは人権侵害になります。あるいは授業中に生徒が教師の質問に答えられないとき、教師から「アホ!」などと罵られたり「こんなんも分からんの?」と小馬鹿にされた場合、こういう発言は教師の「教育権」の範囲内なのか、生徒の「名誉感情」を教師の「教育権」で侵害できるのか?これらの発言が教育権の範囲外であるならば、それは人権侵害になります。あるいは、中学受験を控えた生徒が「学校に行かんと家で勉強したい」と言ったとき、学校が「学校に来て授業を受けろ!」と強制してきた、この場合、生徒の「(自分で)学習する権利」と学校の「教育権」とがぶつかることになりますが、果たして学校の教育権は生徒の自宅学習の権利を制約できるのか、問題となります。あるいはもっと単純な例で、「勉強したくない!」という子供に対して親が「勉強しろ!」と強制することは許されるのか、この場合、子供の「勉強をしない自由」と親の「教育権」が衝突することになりますが、親に教育権の優越を主張できるだけの合理的理由がない限り、それを強制するのは子供の人権侵害になります。今、関西テレビで『ウォーターボーイズ』の再放送がされていますが、生徒達が「学園祭でシンクロ公演をしたい」という主張に対して、学校側が「受験勉強に専念させるため、公演は認めない」と言ってきた場合、このような制約は認められるのか?シンクロ公演をする自由は「表現の自由」に含まれますが、学校側の教育権、この場合、「生徒達の将来ために受験勉強に専念させて良い大学に行かせる」という理由で制約できるのか?

 長々と書きましたが、要するに、人権あるいは人権侵害というのは日常生活のあらゆる場面でいくらでも問題になり得るということです。学校によっては「犯罪被害者の人権について」だの「アイヌ民族の人権問題について」だの、やたらと壮大なテーマが出されたりしますが、そういう日常生活からかけ離れたものでなくても、まずは身近なところから人権意識をつけていった方がいいように思います。

2016年6月10日 (金)

学歴と学力

 著名人はそろって「学歴なんか関係ない!」と仰いますし、私もその意見に賛成です。学歴はあくまでその人の一定の時期の学力を示したものに過ぎませんので、大学時代に遊び呆けてどれだけ学力が落ちようが学歴で評価するのは妥当ではありません。その学力というものも、あくまで事務処理能力の高さに過ぎません(これからは変わってきます)。ただ、これを「だから勉強なんてする必要ない!」と曲解して怠ける人が少なからずいます。成功した人は別として、「学歴なんて関係ない!」と言っている人たちは、学歴に代わる評価基準を何か持っているのか、甚だ疑問です。

 就職先の見つからない大学生が、「結局、企業は学歴で選んでいるじゃないか!学歴差別だ!!」などとよく泣き言を言いますが、それはとんでもない誤解です。企業からすれば学歴があろうがなかろうが、戦力になればなんでもいいのです。企業に就職したければ、学歴のハンデを覆す自分の武器をアピールすればいいだけですが、それができないのは結局、自分の武器が何もないからでしょう。企業も消去法で学歴で判断するしかありません。「何もない奴よりは、事務処理能力だけでもある奴の方がマシ」ということです。それを「学歴差別だ!」などと言われても、企業からすればいい迷惑です。ただ、これからも間違いなく学歴に対する信用は相対的に低下し続け、学歴ではなく学力そのものの評価の度合いが増え続けるでしょう。

 「学歴なんて関係ない!」と言っている人たちはだいたい高学歴者です。「矛盾してるじゃないか!」と思われるかもしれませんが、これはおそらく、高学歴者には「学歴って、世間一般で言われるほどおいしくないよな」という共通認識があると思います。私もこの仕事をしていなければ、全く感じなかったことでしょう。学歴そのものに見返りを求めるのは絶対にやめた方がいいです。自分のやりたいことを早めに見つけ、大学でどれだけ専門性を身に付けたか、世間はそこ「しか」評価しなくなります。

義務教育は必要だが授業は不要

 某塾の受け売りと言うわけではないのですが、確かに「(集団)授業って必要か?」「自分でやった方が早くね?」という疑問は、ある程度以上の学力のある人であれば、少なからず思った経験があるのではないでしょうか。これは小中学校(公立)にはあまり当てはまりませんが、高校、特に偏差値の高い高校の生徒ほど、その思いは強くなるのではないでしょうか。

 私の経験で言えば、頭のいい人ほど基本をしっかりさせるべきなのですが、実際はそうはなっていません。例えば、高校生から非常によく受ける質問が「そもそもサインとかコサインって何なんですか?」「そもそもログって何なんですか?」です。私が高校生の頃、数学の授業中にクラスで一番賢い子が「そもそもサインとかコサインって、何なんですか?」と質問してみんな拍手大喝さい、実はみんなサインコサインの意味がよく分かっていなかったのです。教師は面食らった様子で、結局「角度が何ちゃら…」と意味不明な解説をしていました。基本とはこういうことです。「そもそもサインコサインって何?」「それが実生活でどう役に立つの?」そういう根本的なことをしっかり教えておかないと、生徒は具体的なイメージを全く持てません。そこをおざなりにして解法だけ教えるというのは、もはや学問ではありません。教え子の一人によると、同じような質問をすると教師から「そのへんは教科書に詳しく書いてあるから、後で読んどけ」と言われたそうですが、教科書を読んで足りるのであれば教師は必要ないですね。

 理科系(科学・物理・生物)であれば、教師が専門用語を一方的に羅列して自己満足に浸るケースが多々ありますが、専門用語を羅列するのであれば教科書を読むだけで十分です。英語であれば、長文読解ばかりを宿題に出し、授業ではひたすらその解説ばかりを行い、生徒が質問に答えられないと怒鳴ったり小馬鹿にしたりするケースが多いですが、それなら自分で答え合わせした方がはるかに効率がいいでしょう。生徒達の話を聞く限り、今も昔と変わっていない印象です。勿論、教師により教え方の上手い下手はピンキリですので一括りにはできませんが、外れに当たると悲惨です。私の経験上、「この人、分かりやすい!」と思えたのは数えるほどです。中学時代の国語の先生と、中高時代の塾の塾長と、司法試験予備校講師の柴田孝之さんぐらいです。この3人に共通しているのは、難しい内容を極力平易な言葉で説明できる能力と、笑いのセンスです。悲しいかな、そういう人はほとんどいませんでした。

 サービス業というのは普通、映画・漫画などの文化的なものであれ、医療であれ美容であれ、普通は客がサービスに対し対価を支払い、内容に満足できなければ内容を変更してもらえるか、あるいは損切りでサービスを受けるのをやめることができるのですが、学校教育というのは特殊で、こちらが金(税金)を払ってもサービスの内容(授業の質)が悪いと「馬鹿なお前が悪い!」と逆切れされます。塾や家庭教師だと契約切られて終わりなのですが、学校教育だとそのサービスを変えてもらうことはおろか、受けるのをやめることすらできません。そして内職も許されないため(内職されるような授業をする方が悪いのですが)、無駄に時間を過ごす羽目になります。これは拷問以外の何物でもありません。せめて内職を許容してくれれば、生徒達も助かるのですが。

 学校の授業が分かりにくいのであれば、自分で何とかするしかありません。具体的に言えば、内職スキルを上げるしかありません(ただしバレても責任は負えません)。別の科目の問題集を開くとすぐにバレるので、教科書を読み込むのが一番です。何周も、何周も、基本を徹底するのです。小論文のある学校を受験するのであれば、頭の中で草稿をつくれば良いでしょう。あるいはもう、授業中は完全に睡眠時間に充てるのもいいかもしれません。達人になれば、目を開けたまま寝れます。時間を無駄にしない方法はいくらでもありますので、自分なりの方法を考えましょう。何もしないよりはましです。

2016年4月23日 (土)

コスパについて

 少し前に読んだ百田直樹さんの『大放言』という本の中に、「何でもコスパで考えるバカ」という一説がありました。若者が何でもかんでもコスパ(コストパフォーマンス)で考え、「結婚はコスパが悪い」「車はコスパが悪い」と合理的に何でも考える若者を「何か大事な価値観が抜けている」と批判されています。百田さんは若いときに金が無かったにもかかわらず車を買い、そのせいで金銭的に苦労されたそうですが、その車のおかげで豊かな人生を送れた、コスパでは測れない大きな満足感を得られたとおっしゃっています。

 勉強においてコスパを考えることは決して悪いことではありません。むしろ、限られた時間で最も効率の良い勉強法を考えるのは非常に有意義なことです。しかし、何でもかんでもコスパで考えると弊害が出てきます。以前教えていた生徒ですが、彼は偏差値70近い高校に入学できたまでは良かったものの、その後カリキュラムについていけず、学年最下位のままゲーム三昧の日々を送っていました。英単語帳から「この単語の意味、言ってみて」と出題すると、一問も答えられないという状態でした。本人曰く、「やらなあかんのはわかっているけど、やる気が起きない」とのこと。そこで私は書いて覚えることを勧めたのですが、彼は「でもなぁ~、(書くのは)効率悪いからなぁ~」と一言。確かに書いて覚えるというのはコスパは悪いですが、毎日朝方までゲームをするぐらいなら、その時間を1時間でも書いて覚える時間に回すぐらいわけないはずなのですが、おそらく、「もっと楽して覚える方法ないかなぁ~」というのが本音でしょう。そんな簡単な方法があれば誰も苦労しません。その生徒ですが、一事が万事、数学に関しても、「まずは基本だけやってみよう」と勧めても、「でもなぁ~、それだけできてもテストでは点取れないからなぁ~」で、結局テストではその基本すらも正解できません。その生徒から将来の進路について意見を求められたため、私は「アニメやゲームが好きなら作家か脚本家を目指せば?(その生徒は文系)」と勧めたところ、「でもなぁ~、なれるの一部やしなぁ~」「下積み時代の給料、激安やからなぁ~」とのこと。要するに、「楽して、かつたくさん稼げる仕事がいい」のでしょう。んな仕事、あるかい!

 そもそもコスパで考えるのであれば、学校に行かず独学すればよいのです。最も効率の良い勉強方法は、間違いなく独学です。自分のペースで勉強できますし、何よりお金がかかりません。独学で高認取って、それで大学に進めばいいのです(もっと言えば、これからは学歴の価値がますます下がる時代なので、大学に行かず図書館でタダで知識を得て学力を高めた方が遥かにコスパがいいでしょう)。ただ、実際にそれをできるのは、よほどストイックで自制心のある人だけでしょう。何でもかんでもコスパで考える人は、感情というものを置き去りにします。効率の良い完璧な計画ばかりを立てるのはいいものの結局長続きせず、そのまま卒業まで惰性で過ごすというパターンの方が多いでしょう。勉強をする時に基準にすべきは、満足感や達成感です。「ああ、今日俺頑張ったなー」と思えるような一日を過ごすべきです。

2016年4月 4日 (月)

良い友人を作ろう

 私は高校に入ってから落ちぶれました。最初の中間テストで400人中240番台、期末はさらに下がって280番台、それで完全に気持ちが折れてしまい、惰性で高校生活を送っていました。当時、同じ柔道部に「シゲ」という同級生がいました。彼も私と同じく中学から柔道をしていて、高校では成績がイマイチな人でした(おそらく、中間・期末とも150~200番台くらいだったと思います)。高1の2学期のある日、部室に行くと、シゲが一人でこっそりと何かを見てニヤニヤしていました。何を見ているのか気になったので強引に見せてもらったところ、テストの総合順位が「8位」と書かれたテスト結果一覧表でした。本人曰く、「今回いつもよりちょっと頑張った」とのこと。「少し頑張るだけで、全然違うから、やった方がええよ!」とも。傍から見ていて私とそれほど大差なかったと思われたシゲのその言葉には、説得力がありました。そしてシゲには失礼ですが、「シゲが結果出せたなら、俺も頑張ればいける!」と勝手に思いました。その言葉で急にやる気が出たとか、生活が劇的に変わったというわけではありませんでしたが、「やればできる!」という具体的なイメージは持てました。

 また、小学生の頃から付き合いのあるナオキという同級生がいるのですが、彼は高2の夏休みに「一緒に勉強しよう」と誘ってくれました。彼も成績はイマイチで、全然勉強しなかった人なのですが、「このままじゃあかん!」と思い、「一人じゃ勉強できへんけど、誰かがおったらできる」ということで、私を誘ってくれたのです。彼の家でほどほどに勉強して疲れたらゲーム(ウイイレとスト2)をしてリフレッシュ、彼のおかげで充実した夏休みを過ごせました。

 もう一つ。東大・京大志望以外の文系の生徒は通常、3年に上がるときに日本史と世界史の選択を迫られます。日本史も世界史も授業がさっぱりわからなかった私は、消去法で世界史を選択しました。日本史のあの資料を使ったマニアックな問題が大嫌いだったからです。友人の一人は『信長の野望』というゲームが好きだったことから日本史を選択していました(その子は戦国時代だけ異常に詳しかった)。3年に上がってある日の昼食後のこと、他愛ない会話の流れから日本史選択組と世界史選択組とで「なんでお前ら世界史(日本史)やねん!」という話になりました。日本史組の一人の「お前ら日本人なんやから、日本の歴史をもっと学ばんかい!」という意見に対し、私と同じ世界史選択組の一人だったナオキは「日本史は(中学で)一回やったことの焼き直しやおもんないけど、世界史は未知のことやからまだ興味が持てる」と反論しました。今までそんな発想をしたことのなかった私は思わず「おお!」とうなってしまいました。それから何となく、私も世界史に興味をもてるようになりました。

 彼ら以外の友人もみな面白い人達ばかりで、大いに笑わせてくれました。彼らのおかげでストレスなく楽しい高校生活を送れました。

 同じ落ちぶれる人でも2種類います。成績の良い人を見習って頑張ろうという人と、腐って成績の良い人を妬む人です。後者は落ちぶれてもプライドだけは高いので、成績の良い人を「めちゃめちゃ努力してるねー」などと皮肉ったり、テストの日に「いやー、昨日全然勉強してないわー」と聞いてもいないのに言い訳したりします。これは、「才能じゃお前に負けてねえよ!」という悲しき自己アピールなのですが、私はどんなに落ちぶれても、絶対にこんな人間にはならないでおこうと思いました。こういう人はこういう人同士で集まり、ますます生産性のないことをするようになります。

 自分を高めるには、良い友人と出会うことが大切です。良い友人とは、傷をなめあってくれる人ではなく、自分を高めてくれる人のことです。そういう人との関係を大切にしましょう。

2016年1月 2日 (土)

自分のために努力せよ

 「何のために勉強するの?」と質問されて、「お前の将来のためや」といっても納得する子供は少ないでしょう。「勉強していい大学に入ればいい会社に入ってたくさん給料をもらえるんだ。」と言われても、食べ物に不自由した経験もなければ働いたこともない子供には金銭感覚がないため、勉強するモチベーションにはならないでしょう。がしかし、金銭感覚のない子供にも、自分のアイデンティティに対する漠然とした不安感というものはあります。「君は『世界に一つだけの花』だから大丈夫!」と言われて安心できる人はまれでしょう。「俺って何なんやろう?」「俺の将来どうなるんやろう?」という不安感、そして「自分には何もない」という自己嫌悪、それらの負の感情をなくすためには、何かに努力するしかありません。この努力というのは勉強に限ったことではありません。良い大学に入るのもよし、何か資格を取るのもよし、スポーツで結果を出すのもよし、「客観的な確実なもの」を手に入れることでその不安感からは解放されます。そしてたとえ結果は出せなくても、何かに頑張れたという経験は自分の自信になります。「何かに頑張れる」そのこと自体が一つの財産なのです。そのためには、楽することを覚えてはいけません。要領の良さや抜け道ばかりを探しても、たとえその場は切り抜けられたとしても、決してその子のためにはならないでしょう。