その他

2019年1月 5日 (土)

不平等を受け入れましょう

 「友達はゲームやネットばかりやっているけど成績はいい!なんで俺だけやったらあかんのや!」それはその友達が、ゲームやネットをしていても結果を出せる人なんです。あなたは結果を出せない人なんです。成績上げたきゃ、ゲームやネットは控えましょう。嫌なら、諦めなさい。

 「友達は一回やっただけで解けるんですよ!なんで俺は一回で解けるようにならないんですか!」それはその友達が、一回やっただけで解ける人なんです。あなたは解けない人なんです。成績上げたきゃ、解けるようになるまで何回もやり直しましょう。嫌なら、諦めなさい。

 さすがに中学生以上になったのであれば、いい加減「人間は不平等だ」ということは理解して欲しいものです。才能の差、環境の差、経験の差、それらに対して愚痴っても仕方ありません。才能がないのなら、他人の何倍も努力するしかないじゃないですか。嫌なら、諦めなさい。

 来週の金曜ロードショーでまた『耳をすませば』を放送するらしいです。ヒロインは、普通のルックスの熱血野球少年の愛の告白は受け入れませんが、イケメンで成績優秀で育ちも良くて大きな夢をもっているストーカー男の愛の告白はあっさり受け入れてしまいます。人間は不平等なのです。不平等に対して愚痴って生きていくか、不平等を受け入れて前に進むか、その人がどういう人生を歩むかは子供の段階で決まります。他人は関係ない、自分のことに集中して、少しずつでも前に進んでいくしかないのではないでしょうか。

2019年1月 2日 (水)

進学校で落ちこぼれが生まれる理由

 勉強でもスポーツでも、いわゆる名門校があります。スポーツの名門校には、そのスポーツでの各地方のエース級の子供たちが集まってきます。そのエース級の子供たちの中でもレギュラーになれるのはごく一部、毎日死ぬほど練習しても補欠にすら入れない子供が多々います。ただ、そういう補欠にすら入れなかった子供が普通の学校に転入したとしたら、その学校では即エースになれるでしょう。それは、その子供が名門校で死ぬほど練習してきたからです。

 勉強の名門校でも、各学校の賢い子供たちが集まってきます。その賢い子供たちの中でも上位層に入れるのはごく一部です。ただ、上位層に入れなかった子供が普通の学校に転入しても、中間層は微妙ですが、下位層はそこでも下位層になるでしょう(経験上、進学校の下位層の学力のヤバさを散々目にしてきました)。それは、その子供が全く勉強(練習)してこなかったからです。

 こう言うと、「子供達は学校でちゃんと授業を受けているじゃないか?授業を受けることがスポーツでいうところの練習じゃないか?」と思われるかも知れませんが、ここ、大多数の方が誤解されていますが、授業というのはあくまで「練習のやり方」を教えているだけです(そして教師の教え方が上手いと、子供は練習しやすくなります)。やり方だけ教わっても、練習しないと学力が上がることはあり得ません。そして勉強における練習とは「宿題」です。基本的に、成績が悪いのは練習していない、つまり宿題をしていないからです(ちゃんと宿題をしているのに成績が悪い子供、そういう子供は復習量が足りません)。

 成績の悪い子供の親御さんはたいてい、とりあえず子供を塾に行かせますが、少し考えて欲しい。学校の授業がさっぱりわからない子供や、学校よりも高いレベルのことを学びたい子供は塾に行った方がいいと思います。対して、学校の授業内容は理解しているけど家で宿題していないだけの子供、そういう子供は塾で授業を受けても意味がありません。「やり方」教わった後に「やり方」教わっても全く意味がありません。こういう子供は学校の図書館や自習室などで勉強させるのが一番良いです。スポーツの場合は仲間と一緒に練習をするから頑張れますが、勉強の場合は基本的に家で一人でしなければなりません(勉強がスポーツより大変なところはここです)。そして家は基本的にリラックスする場所なので、本来勉強するには向いていません。

 経験上、宿題をしてこない子供を教える場合、やむを得ず一緒に宿題をしていくことになりますが、これだと宿題を消化するのに時間を使い切ってしまい、復習に時間を割けません。宿題が最初から全然わからない子供、宿題をできるのにしてこない子供、こういう子供は、コスパで考えたら、家庭教師よりも個別指導の方がいいと思います(他の家庭教師の方々のことは全く存じ上げませんが、少なくとも私が教えるには向いていないと思います)。私としては、子供には宿題のうち自力で解けるところだけ解いてきてもらい、授業では子供の分からなかったところ、間違えたところ、解くのがしんどいところだけ集中的にやっていき、類題を解かせて復習をして固めていきたいと思っております。

2018年9月24日 (月)

集中力は有限です

 例えばRPG(ロールプレイングゲーム)で魔法使いが魔法を使うにはMP(マジックポイント)が必要なのと同じように、勉強においても使える集中力は限られています。そして大魔法を使うとMPを多く消費するように、難しい問題を解くには多くの集中力を必要とします。ところが、以前にも述べたように、昔からなぜか勉強に関しては、集中力が切れても、そこは「気合いや根性で何とかなる!」と思いがちです。私自身、高校時代の成績は英語と世界史以外は極めて平凡なもので、毎回テスト1週間前になると「今回は気合い入れてマジで頑張ろう!」と思いつつも結局だらだらと遊んでしまい、3日前になってもエンジンがかからず、結局いつもの一夜漬けというパターンになっていました。で、一夜漬けしてどっと疲れるからますます勉強が嫌いになる。普段から勉強していないのだからMP0状態、気合入れたところでMPが増えるわけがないのに。今にして思うと、我ながら馬鹿の極みですね。

 かつての頭のいい同級生たちにしろ、稀にいるものすごく成績のいい教え子にしろ、共通しているのは、勉強するのが普通の状態になっているという点です。気合い入れて勉強を頑張るというわけではなく、どちらかと言うと趣味の延長のような、勉強するのが呼吸をするのと同じように「普通」という状態です。そして、その状態をずっと続けていると、いつの間にか経験値がたまりまくってMPの最大値がMAXになっていという状態なのでしょう。東大生のアンケート調査なんかを読んでみると、「普通に勉強してたら受かっちゃいましたw」みたいなことが書かれていますが、これって決して見栄はって言っているわけじゃなく、結構本音なんだろうなって思うのです。おそらく彼らは「勉強は楽しい」と答えるでしょう。仮に彼らが気合入れて死ぬほど勉強していたら、勉強疲れでかえって勉強嫌いになって、東大に受かっていなかったんじゃないかと。結局、苦にならない範囲で、少しずつ少しずつ経験値を積み上げて、MPの最大値を増やしていくのが一番なんじゃないかという気がします。まさに「継続は力なり」、どれだけ勉強を習慣化できるかが大事です。気合や根性で一発逆転は狙えません。

 私が中高生の時代にはヤンキーがたくさんいました(ヤンキーがどんな人たちか知りたい人には、加瀬あつしさんのギャグ漫画『カメレオン』がお勧めです)。ヤンキーの大半は口だけのヘッポコ野郎なのですが、中には結構無茶なことをする、本当に気合の入った人たちもいました。じゃあ「なぜそんなに気合のある人たちなのに、勉強やスポーツを頑張らないんだ?」というと、気合は一瞬しか出せないからです。『聖闘士星矢』の主人公たちが毎回格上の強敵たちに瀕死の状態を負わされながらも、「うおおおお!燃えよ俺のコスモよ!」と言ってコスモを爆発させて大逆転できるのは、一瞬の気合や根性を使うだけでいいからです。しかし、勉強やスポーツのように積み重ねないとどうしようもない分野では、気合や根性だけではどうにもなりません。気合や根性で一瞬の痛みに耐えたり火事場のクソ力を出すことはできますが、MPを上げることはできません。むしろ気合い入れるとMPの消費量が多くなります。超サイヤ人になると気の消費量が激しくなるのと同じです。

 要するに、勉強においては「気合いや根性」なんて不確かなものに頼ってはいけないということです。私自身もそうでしたが、「気合いや根性で何とかなる」は思い上がりです。集中力は有限であることを認識したうえで勉強していかねばなりません。「あー、なんか今日、勉強やる気出ねえわ」それ、出ないのじゃなく、「出せない」のだということに早く気付くべきです。そしてMPの最大値は、苦にならない範囲で勉強を習慣化して、経験値をためてレベルアップして、少しずつ上げていくしかありません。そして勉強を習慣化するには、点数とか順位とか、余計なことを考えず、ただ純粋に勉強を楽しむことです。私は大学を卒業してから理系科目を勉強し直しましたが(「理系科目から逃げた」というコンプレックスを消したかったのです)、それはあくまで「趣味」の延長です。テストというプレッシャーもなく、他人と成績を比較されることもなく、時間も気にせず、余計なことを考えずに勉強したから楽しめました。受験生はプレッシャーや他人との比較は不可避でしょうが、それらをなるべく意識しないで勉強した方が良い結果が得られると思います。

2018年8月11日 (土)

ズルはダメ!

●ズルする奴は救いようがありません

 私の経験上、絶対に成績を上げることのできないタイプの子供がいます。「宿題を全くしない子供?」ではありません(ちなみに宿題とは、私が独自に出す宿題ではなく、学校(中学受験であれば塾)から出された宿題のことです)。家で全く宿題をしない子供でも、正直に「やってません」と言ってくれる子供はまだ「いい子」です。「見込み十分アリ」です。宿題を全くしてこなくても、家庭教師の時間内でできる限りのことをすれば、決して高望みはできませんが、ある程度までは対処できます(子供が何か厳しめのスポーツをやっている場合は、子供の集中力が非常に高いので、さらに高いレベルまで対処できます)。また、子供が家で宿題をしないのには必ず理由があるのですから、子供がその理由を正直に話してくれれば、そこを改善するための具体案を出すことはできます(経験上、勉強の難易度を下げ、家庭の環境を変えれば、うまくいくことが多いです)。「正直の頭に神宿る」です。

 絶対に成績を上げることのできない子供、それは、ズルをする子供です。ズルをする子供とは、典型的なのは、宿題の答えを丸写しして「宿題やりました!」と平気で嘘をつく子供です(宿題が出されているのに「出されていません」と嘘をつく子供や、宿題をやっていないのに「やりました!」と嘘をつく子供も)。私は基本的に子供を叱るということをほとんどしませんが、子供がズルをしたときだけは、かなり叱るようにしています。ズルをして得られるものはありません。仮に子供の頃にズルをすることで味をしめてしまうと、その子供は大人になってから大いに苦労することになります。子供のズルを見破って叱るのは、大人の役目だと思っております…というのは建前で、私自身、子供にこれをやられるとたまったもんじゃありません。私は子供に対し、「宿題をしていなくても決して叱らないから、やっていないときは正直に言って」と伝えております(その前提として、親御さんにも、子供が宿題をしていないことに対して頭ごなしに叱らないようにお願いいたします)。それでも、何度注意してもズルをやめない子供がいます。つまらない虚栄心を優先させ、「こいつ(私)は騙せる!」と思うらしいです。正直、こういう子供は相手にしたくありません。こちらの精神まで腐ってしまう。こういう子供は「見込みナシ」ということで、契約を解約させていただいております。

 生きていく上で嘘をついたりズルしたりすることもたまにはあるでしょう。ただ、自分に手を抜く奴はダメですね。自分に手を抜く奴は死ぬまで自己実現とは無縁のまま、ゴミみたいな人生を送るしかありません。それは親のせいでも環境のせいでもなく、自分のせいです。

●親がすべきたった一つのこと

 親がすべきたった一つのこと、それは、子供のズルを見破って叱ることです。「ズルはダメ!」、これは知人の受け売りですが、細かい小言は言わないかわりに、その「ズルをしない」というラインを超えたときだけは徹底的に叱る、それだけで十分です。テストの点数が悪かろうが、宿題をやってなかろうが、それは本質的な問題ではありません(それに対して叱ってしまうと、子供は「叱られまい」とズルをするようになります)。テストの点数を上げるための方法も、勉強に集中するための方法も、教えることはできます。ただ、ズルをする性格は、簡単には矯正できません。親は子供が小さいときから、そこに敏感になっていなければなりませんし、そこさえしっかりしていれば、子供は真っ直ぐに育ちます。

2018年5月29日 (火)

「普通」と言ってはいけない

 例えば、自分の子供がテストで酷い点数を取ると、親は「何だ!この点数は!!」と怒り、子供に対し延々と説教をする。初めのうちは我慢していた子供も、だんだんそれに耐えられなくなり、「ごちゃごちゃうるさいんじゃ!」と反発すると、親は「これぐらい(の説教は)普通だ!」「どこの親でもみんな言うわ!」と言い返す、なんてのはよくあるパターンではないでしょうか?では、子供がテストで酷い点数を取ると親が延々と説教するのは「普通」か?と聞かれれば、かなり疑問に感じる方も多いのではないでしょうか?(私個人としては、勉強をサボって酷い点数ならば、サボったことに対して説教するのはいいと思いますが、ちゃんと勉強したけど酷い点数の場合、結果に対して説教するのは子供に酷な気がします。その「酷い点数」というのも、あくまで相対的なものに過ぎません)実際、酷い点数をとったことに対して説教するのが「普通だ!」と言う親は、本当にそれが普通かどうか統計を取って調べたわけではないでしょう。その「普通」は単なる思い込みであって、決して「普通」ではありません。

 「普通」という言葉を安易に使うのはいただけません。「普通」という言葉を安易に使う人には、責任逃れの意識が少なからずあります。「他の人もやって(言って)いるのだから、自分がそれをする(言う)のもいいんだ」という意識です。例えば、ゲーム機やスマホが欲しくてしょうがない子供は「友達はみんな持ってる!」「今時、持ってるのが普通だ!」と言って親にねだります。では、その友達が自殺したら、その子供も自殺するのでしょうか?あるいは、そういう子供の要求に対し、「ゲーム機やスマホくらい、買ってあげるのが普通」という勝手な思い込みで安易に買い与える親も思考停止してしまっています。その結果、子供がゲームやネット中毒になってしまった場合、その責任は買い与えた親にあります。「友達はみんな持っているって言うし~」なんて関係ありません。あくまで「自分の子供にとって」ゲーム機やスマホを買い与えるのが妥当かどうか、買い与えた場合のリスクを考えた上で、自分自身で判断すべきです。

 こらからの時代は価値観が多様化して相対化していきます。「平均」は存在しても、「普通」なんてものは存在しなくなります。あるのは主体性と他者との個人的関係性のみ、「普通は~」なんて言っていると、誰にも話を聞いてもらえません。自分の考えで自分の言葉で伝えない限り、決して相手には届きません。

2018年3月 6日 (火)

思考を言語化する

 私が大学に入ってから最も苦労したこと、それは「上手く話せない」ということでした。学生同士で討論する場面で、言いたいことはあるのですが、それをうまく表現できない、論理的に組み立てられない。結局、つたない単語を組み合わせて当たり障りのないことを言うだけで「自分の意見」というものに昇華できない、そういうことが多々ありました。

 上手く話せなかった原因はいくつかあります。一つ目は、中・高時代に知識や解法を覚えることに偏り過ぎて、教科書という最高のツールを活用しなかったこと。教科書には必要なことがすべて載っています。「~だから~」、あらゆる記述が論理的に配列され、無駄な部分が1ミリもありません。この仕事をするようになって改めて教科書を読み直して、初めてその凄さに気づきました(特に理系科目)。結局、学校の教師達の言っていたことが正しかったわけですが、高校生の頃の私には教科書を読み込むだけの学力はありませんでした。それは中学時代に、教科書を読み込むことをしてこなかったためです。教科書の要点だけを押さえて本質的なことを理解しないまま問題集を解いて知識を固める、要領よくやったつもりでしたが、そのツケを高校以降に払うことになりました。

 二つ目は、国語教育に問題があります。国語(というか現代文)では、主に文章の読解のみが行われています。「筆者の主張を正しく解釈しろ」というものです。コミュニケーションは、①まず相手の言っていることを正しく理解して、そのうえで、②自分の意見を伝える、その繰り返しで成立します。①が正しくできないと、相手としては「いや、そんなつもりで言ったんじゃねえよ!」ということになり、コミュニケーションが成立しません。なので、①をすることは必要なのですが、問題は、②がほとんど行われていないことです(戦前であれば上官の言うことをきくだけの兵士を育てるため、戦後であれば上司の言うことをきくだけのサラリーマンを育てるため、国家にとって②は不要どころか有害でありました)。教育制度改革でどこまで改善されるのかは分かりませんが、今のままではいけません。②ができないと話を聞くだけで終わってしまうだけなので、もしかしたら男性は女性にモテるかもしれませんが。

 少し前に老荘思想と「断捨離」ブームが起こり、ミニマリストが増加し、その後に「承認欲求を捨てろ」というアドラー心理学が流行しました。これまでの拝金主義や学歴主義が崩壊し、人が人としての生き方を模索していることの表れに思います。国家や通貨も、もしかしたら崩壊するかもしれません。そうなると、大切なのは他者との精神的なつながりになります。自分がどういう思想や哲学を持っているのか、それを相手に伝えるためのコミュニケーション能力がより重要になってきます(要するに、学歴や金があってもモテないし、満たされないし、幸福感も感じられない、ということです)。そのためにも、普段から思考を言語化する癖をつけなければなりません。日記やブログを書くのもよし、誰かと好きな漫画や映画を語り合うもよし、割と女子は普通にやっていますが(ゆえに女性は昔からコミュニケーション能力が高いのです)、男子もしなければなりません。

 思考の言語化以前に、そもそも言語化ができないという人は、まずは語句の説明から始めてみると良いでしょう。例えば歴史の問題集では、「Q:民族と国家の利益を最優先する軍国主義的な独裁政治の体制を何というか。」「A:ファシズム」というような一問一答の問題がありますが、それを逆にする、つまり、「Q:ファシズムとは何ですか。」「A:ファシズムとは、~」という形にすれば、歴史の知識と言語化能力を同時に身に付けられるので一石二鳥です(文を丸暗記しろと言っているわけではありません。自分なりの表現ができればよいのです)。これから始まる大学入試制度改革で明言されているのが「総合的学力」の必要性、知識をいかに言語化できるかが評価の対象となります。勉強の難易度は上がりますが、それに早く対応できた人が勝ちます。

2017年11月23日 (木)

宿題について

 宿題とは?広辞苑によれば「学校で学習したことの復習または予習のため家庭でやらせる課題。」とのこと。ではなぜ、学校(や塾)は宿題を出すのか?それは反復させて問題を解けるようにさせるためです。例えば、子供に自転車の乗り方をマスターさせるには乗り方を教えるだけではダメで、実際に自転車に乗せて練習させないと乗れるようにはなりません。それと同じで、学校や塾で解き方だけ教わっても実際に解かせてみないと解き方は身につきません。

 「宿題をちゃんとしているのに、テストでは点数がとれない」そういう子供が多々います。そういう子供はたいてい、宿題を一回しかしていません。一回やってみて間違えた問題を直しをしただけで終わってしまっているため、テストでは点数をとれません。間違えた問題が解けるようになるためには、その問題を自力で解けるようになるまで何回も何回もしなければなりません。直しをして理解しただけでは足りません。「理解」と「解ける」は完全に別物なんです。

 宿題をしないと解けるようにならないのに、なぜ成績の悪い子供は宿題をしないのか?まず第一に、周りに勉強よりも楽しいことがあるため、それに流されているというパターンです。「楽しいこと」とは、現在は主にネットとゲームです。この場合の対処法は簡単、「勉強よりも楽しいもの」を処分すればいいだけの話です。それは保護者にしかできませんし、それができないのであれば、子どもの勉強での成功はあきらめるしかありません。

 第二に、その宿題の難易度がその子のレベルに合っていないというパターンです。宿題というのは基本的に不特定多数を対象に出されるものであるため、そのレベルについていけない子供にとっては、宿題は苦痛でしかありません。この場合は、宿題の中でも自分にできること「だけ」をするしかありません。もし今勉強している範囲より以前でつまづいている場合は、そこに戻ってやり直すしかありません。人にはだれしも、「ここまでなら頑張れる」というラインがあります。そのぎりぎりのラインを拾っていければ、学力は身に付けられます。

 逆に、宿題がその子にとって不要なものであるパターンもあります。ある程度学力が高まれば、自分にとってその宿題が必要か不要かというのは容易に判断できるようになります。自分にとって優先すべき科目の課題があるのに、他の科目からの大量の宿題に時間をとられ、本来やるべきことに時間を割けない。そういう思いをしている人(特に高校生)は多いのではないでしょうか?そういう人は自分の直感を信じるべきです。私自身も、明らかに「これ、無駄だろ」と思う宿題は全くしませんでした。学校からすれば宿題をしていなくても結果さえ出していれば問題はないので、適当にやったふりして答えを丸写ししても特に問題ありません(あくまで、やらなくても「できる」のが前提です)。

 繰り返しになりますが、宿題というのは不特定多数を対象にしているものです。宿題が個々人のニーズに合わないのはむしろ当然なのです。本来、子どもが自主的に復習できるのであれば、学校は宿題を出す必要なんてありません。自分のことは自分にしかわからないのですから、最終的には自分で課題を設定して自分で復習をしていかねばなりませんし、そうしないといつまで経っても学校に依存してしまうことになります。

2017年11月16日 (木)

努力について

 「努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力している。」かのベートーヴェンの言葉です(てっきり、『はじめの一歩』の鴨川会長のオリジナルの台詞だと思ってました)。勉強にしろスポーツにしろ、努力なしに成功することはできないということでしょう。辞書によれば、「努力」とは「目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。」とのこと。ある人は子供に対し、「寝る間も惜しんで勉強しろ!」「苦しくても歯を食いしばって努力しろ!」と仰っていました。そうなると、私自身は「努力」はできないですね。少なくとも私は、寝る間を惜しんだり苦しいのを我慢すると、「もう二度とやりたくねー!」と感じ、ますます勉強が嫌いになりました。ベートーヴェンの言う「努力」が日本語の「努力」と同じ意味なのか、そのあたりはよくわかりませんが、ベートーヴェンが「私は、自分に課せられていると思っている創造を全てやり遂げずに、この世を去るにはいかないのだ。」と言っているあたり、ベートーヴェンには創造に対する内面的衝動が先にあり、それに体がついていけない(難聴と肝硬変)から努力したという感じでしょうか。少なくとも、外からあーだこーだ言われて嫌々努力したという感じではないようです。

 私自身、大学受験のときは、自分では努力したと思っております。ただ、「寝る間を惜しんで」とか「歯を食いしばる」とか、そういう思いは全くしていません。自分がやるべきことをやっていたら、いつの間にか時間が過ぎていた、そういう感覚です。要するに、いつの間にか勉強に没頭していた、ハマっていたという感覚です。結果的に睡眠時間が短くなることはありましたが、それはあくまで没頭の結果であり、そこに負の感情はありませんでした。なぜハマれたかというと、自分で立てた戦略が自分にとって無理のないものだったからです。どうすれば気持ちを切らさないでいられるか(家庭での環境づくり)、今の自分は何ができるか、どのレベルなら頑張れるか、いかに無駄なこと(主に学校の課題)をしないで済ませられるか、そういうところを正しく自己分析して戦略を立てられれば、あとはそれに従えば何ら苦ではありませんでした。努力は主体性ありきです。疲れたらすぐに休みましたし、眠くなったら眠りましたし、遊びたくなったらすぐに遊びました。仮に当時、眠いのを「我慢」して勉強していたり、自分のレベルや方向性にまったく合わない学校の課題をクソ真面目にやっていたり、遊びを一切シャットアウトしていたら、間違いなく途中で挫折していたと思います。

 日本人は努力が大好きです。努力なしに成功できないのは間違いないでしょう。ただ、努力の方向性に関しては、未だに戦前のメンタリティがそのまま残っている印象です。つまり、圧倒的なアメリカとの戦力差を「気迫でなんとかしろ!」というもの。戦前のメンタリティが残っている人は、他人が壁にぶつかっているのを精神力で超えるよう強要してきます。子供に「寝る間を惜しめ」とか「歯を食いしばれ」とか言っている人もしかり。そういう精神論を強要された子供たちが言うとおりに勉強するかと言えば、実際にはほとんどしないでしょう。精神論以前に、家が勉強に集中できない環境であったり、そもそも勉強の難易度がその子供に合っていなかったり、子どもの食生活や睡眠時間が乱れていたり、子供が運動不足であったり、先に改善すべきことがいくらでもあるのに、それらを全部すっ飛ばして「精神力で何とかしろ」と強要します。精神論=ノープランです。戦前の日本は、アメリカに特攻を仕掛けて玉砕しました。子供が玉砕する前に、試すべきことはいくらでもあります。

2016年7月29日 (金)

人権作文について

 毎年中学生用の課題として出される人権作文ですが、「人権」なんて言ったって子供にはぴんと来ないのではないでしょうか?かつては、政府に都合の悪い書物は読むのを禁止され(知る権利の侵害)、身分制度により自分のやりたい職業にもつけず(職業選択の自由の侵害)、好きな相手とも結婚できず(婚姻の自由の侵害)、政府の批判をすれば警察に捕らえられ(表現の自由の侵害)、まともに裁判を受けられず(裁判を受ける権利の侵害)、選挙権すら認められない、そのような時代がどの国にもありました。しかし現在では人権は厚く保障され、人々は何不自由なく生活できるようになりました。そういう現状で、人権の大切さを子供に認識させるのはなかなか難しいことです。

 ただ、子供にも人権の制約がないわけではありません。子供には飲酒や喫煙の自由がありません(「~の自由」は人権のうち「自由権」に含まれます)。しかしこれらを制約するのは子供の健康を守るためであり、その制約には合理的な理由があります(これを「公共の福祉」といいます)。これらの人権は、子供を守るという利益に比べたら、それほど重要な権利ではありません。あるいは、例えば医療ドラマを見て感動した中学生が「よーし、明日から医者として働くぞ!」と思っても医師免許がないので医者として働けません。この場合、医師の免許制度は中学生の「職業選択の自由」を制約していることになりますが、医療知識のない人が患者の治療をしても効果がないどころか、患者が死んでしまうことになるため、この制約には理由があります。しかし、例えば、部活動で試合中にミスをして顧問にビンタされた、こういう場合、その生徒の「身体の自由」は侵害されていることになります。顧問からすれば「生徒を教育する権利(教育権)」の範囲内だ(いわゆる「愛のムチ」)と反論することになるでしょうが、ではこのビンタは教師の「教育権」の範囲内と言えるのか、「身体の自由」この場合「殴られない自由」は顧問の「教育権」により制約されるだけの合理的な根拠があるのか?ビンタが教育権の範囲外であるならば、それは人権侵害になります。あるいは授業中に生徒が教師の質問に答えられないとき、教師から「アホ!」などと罵られたり「こんなんも分からんの?」と小馬鹿にされた場合、こういう発言は教師の「教育権」の範囲内なのか、生徒の「名誉感情」を教師の「教育権」で侵害できるのか?これらの発言が教育権の範囲外であるならば、それは人権侵害になります。あるいは、中学受験を控えた生徒が「学校に行かんと家で勉強したい」と言ったとき、学校が「学校に来て授業を受けろ!」と強制してきた、この場合、生徒の「(自分で)学習する権利」と学校の「教育権」とがぶつかることになりますが、果たして学校の教育権は生徒の自宅学習の権利を制約できるのか、問題となります。あるいはもっと単純な例で、「勉強したくない!」という子供に対して親が「勉強しろ!」と強制することは許されるのか、この場合、子供の「勉強をしない自由」と親の「教育権」が衝突することになりますが、親に教育権の優越を主張できるだけの合理的理由がない限り、それを強制するのは子供の人権侵害になります。今、関西テレビで『ウォーターボーイズ』の再放送がされていますが、生徒達が「学園祭でシンクロ公演をしたい」という主張に対して、学校側が「受験勉強に専念させるため、公演は認めない」と言ってきた場合、このような制約は認められるのか?シンクロ公演をする自由は「表現の自由」に含まれますが、学校側の教育権、この場合、「生徒達の将来ために受験勉強に専念させて良い大学に行かせる」という理由で制約できるのか?

 長々と書きましたが、要するに、人権あるいは人権侵害というのは日常生活のあらゆる場面でいくらでも問題になり得るということです。学校によっては「犯罪被害者の人権について」だの「アイヌ民族の人権問題について」だの、やたらと壮大なテーマが出されたりしますが、そういう日常生活からかけ離れたものでなくても、まずは身近なところから人権意識をつけていった方がいいように思います。

2016年4月23日 (土)

コスパについて

 少し前に読んだ百田直樹さんの『大放言』という本の中に、「何でもコスパで考えるバカ」という一説がありました。若者が何でもかんでもコスパ(コストパフォーマンス)で考え、「結婚はコスパが悪い」「車はコスパが悪い」と合理的に何でも考える若者を「何か大事な価値観が抜けている」と批判されています。百田さんは若いときに金が無かったにもかかわらず車を買い、そのせいで金銭的に苦労されたそうですが、その車のおかげで豊かな人生を送れた、コスパでは測れない大きな満足感を得られたとおっしゃっています。

 勉強においてコスパを考えることは決して悪いことではありません。むしろ、限られた時間で最も効率の良い勉強法を考えるのは非常に有意義なことです。しかし、何でもかんでもコスパで考えると弊害が出てきます。以前教えていた生徒ですが、彼は偏差値70近い高校に入学できたまでは良かったものの、その後カリキュラムについていけず、学年最下位のままゲーム三昧の日々を送っていました。英単語帳から「この単語の意味、言ってみて」と出題すると、一問も答えられないという状態でした。本人曰く、「やらなあかんのはわかっているけど、やる気が起きない」とのこと。そこで私は書いて覚えることを勧めたのですが、彼は「でもなぁ~、(書くのは)効率悪いからなぁ~」と一言。確かに書いて覚えるというのはコスパは悪いですが、毎日朝方までゲームをするぐらいなら、その時間を1時間でも書いて覚える時間に回すぐらいわけないはずなのですが、おそらく、「もっと楽して覚える方法ないかなぁ~」というのが本音でしょう。そんな簡単な方法があれば誰も苦労しません。その生徒ですが、一事が万事、数学に関しても、「まずは基本だけやってみよう」と勧めても、「でもなぁ~、それだけできてもテストでは点取れないからなぁ~」で、結局テストではその基本すらも正解できません。その生徒から将来の進路について意見を求められたため、私は「アニメやゲームが好きなら作家か脚本家を目指せば?(その生徒は文系)」と勧めたところ、「でもなぁ~、なれるの一部やしなぁ~」「下積み時代の給料、激安やからなぁ~」とのこと。要するに、「楽して、かつたくさん稼げる仕事がいい」のでしょう。んな仕事、あるかい!

 そもそもコスパで考えるのであれば、学校に行かず独学すればよいのです。最も効率の良い勉強方法は、間違いなく独学です。自分のペースで勉強できますし、何よりお金がかかりません。独学で高認取って、それで大学に進めばいいのです(もっと言えば、これからは学歴の価値がますます下がる時代なので、大学に行かず図書館でタダで知識を得て学力を高めた方が遥かにコスパがいいでしょう)。ただ、実際にそれをできるのは、よほどストイックで自制心のある人だけでしょう。何でもかんでもコスパで考える人は、感情というものを置き去りにします。効率の良い完璧な計画ばかりを立てるのはいいものの結局長続きせず、そのまま卒業まで惰性で過ごすというパターンの方が多いでしょう。勉強をする時に基準にすべきは、満足感や達成感です。「ああ、今日俺頑張ったなー」と思えるような一日を過ごすべきです。

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