その他

2018年8月11日 (土)

ズルはダメ!

 私の経験上、絶対に成績を上げることのできないタイプの子供がいます。「宿題を全くしない子供?」ではありません。家で全く宿題をしない子供でも、正直に「やってません」と言ってくれる子供はまだ「いい子」です。「見込み十分アリ」です。宿題を全くしてこなくても、家庭教師の時間内でできる限りのことをすれば、決して高望みはできませんが、ある程度までは対処できます。また、子供が家で宿題をしないのには必ず理由があるのですから、子供がその理由を正直に話してくれれば、そこを改善するための具体案を出すことはできます(経験上、勉強の難易度を下げ、家庭の環境を変えれば、うまくいくことが多いです)。「正直の頭に神宿る」です。

 絶対に成績を上げることのできない子供、それは、ズルをする子供です。ズルをする子供とは、典型的なのは、宿題の答えを丸写しして「宿題やりました!」と平気で嘘をつく子供や、宿題が出されているのに「出されていません」と平気で嘘をつく子供です。ズルをするということは、相手を騙そうとしているということですから、性格が歪んでいます。なお、ズルをする子供のほとんどは男子です。おそらく女性の方は、いい年した男がバレバレの嘘をついて、その嘘がバレると開き直って逆ギレするのを見て、「男って、本当にバカよねー」と呆れたことが少なからずあるはず。まさに「あれ」です。そういうバカは、子供の時にズルばかりして味をしめて、それがやめられないのです。ただ、嫌なことを申しますが、「自分の子供に限って、そんなことをするはずがない!」なんてことはありません。歪んだ性格を直すのは、子供のうちしかありません。私は基本的に子供を叱るということをほとんどしませんが、子供がズルをしたときだけは、かなり叱るようにしています。「ズルはダメ!」、これは知人の受け売りですが、細かい小言は言わないかわりに、その「ズルをしない」というラインを超えたときだけは徹底的に叱る、それでいいと思います。

 「宿題をしていない」からといって子供を頭ごなしに叱っても、ほとんど効果はありません。むしろ、子供の嘘のスキルを上げてしまうだけになってしまいます。私は子供に対し、「宿題をしていなくても決して叱らないから、やっていないときは正直に言って」と伝えております。それでも、何度注意しても子供がズルをやめない場合、その子供は「見込みナシ」ということで、契約を解約させていただきます。こういう子供の歪んだ性格を直すには、早く社会に出させて、痛い目に合わせるしかありません。

2018年5月29日 (火)

「普通」と言ってはいけない

 例えば、自分の子供がテストで酷い点数を取ると、親は「何だ!この点数は!!」と怒り、子供に対し延々と説教をする。初めのうちは我慢していた子供も、だんだんそれに耐えられなくなり、「ごちゃごちゃうるさいんじゃ!」と反発すると、親は「これぐらい(の説教は)普通だ!」「どこの親でもみんな言うわ!」と言い返す、なんてのはよくあるパターンではないでしょうか?では、子供がテストで酷い点数を取ると親が延々と説教するのは「普通」か?と聞かれれば、かなり疑問に感じる方も多いのではないでしょうか?(私個人としては、勉強をサボって酷い点数ならば、サボったことに対して説教するのはいいと思いますが、ちゃんと勉強したけど酷い点数の場合、結果に対して説教するのは子供に酷な気がします。その「酷い点数」というのも、あくまで相対的なものに過ぎません)実際、酷い点数をとったことに対して説教するのが「普通だ!」と言う親は、本当にそれが普通かどうか統計を取って調べたわけではないでしょう。その「普通」は単なる思い込みであって、決して「普通」ではありません。

 「普通」という言葉を安易に使うのはいただけません。「普通」という言葉を安易に使う人には、責任逃れの意識が少なからずあります。「他の人もやって(言って)いるのだから、自分がそれをする(言う)のもいいんだ」という意識です。例えば、ゲーム機やスマホが欲しくてしょうがない子供は「友達はみんな持ってる!」「今時、持ってるのが普通だ!」と言って親にねだります。では、その友達が自殺したら、その子供も自殺するのでしょうか?あるいは、そういう子供の要求に対し、「ゲーム機やスマホくらい、買ってあげるのが普通」という勝手な思い込みで安易に買い与える親も思考停止してしまっています。その結果、子供がゲームやネット中毒になってしまった場合、その責任は買い与えた親にあります。「友達はみんな持っているって言うし~」なんて関係ありません。あくまで「自分の子供にとって」ゲーム機やスマホを買い与えるのが妥当かどうか、買い与えた場合のリスクを考えた上で、自分自身で判断すべきです。

 こらからの時代は価値観が多様化して相対化していきます。「平均」は存在しても、「普通」なんてものは存在しなくなります。あるのは主体性と他者との個人的関係性のみ、「普通は~」なんて言っていると、誰にも話を聞いてもらえません。自分の考えで自分の言葉で伝えない限り、決して相手には届きません。

2018年3月29日 (木)

環境を変えるしかない

 少し前にベストセラーになった橘玲さんの新書『言ってはいけない 残酷すぎる真実』に、「子供の性格は遺伝と非共有環境で決まる」という一節がありました(海外での研究の結果を橘さんが引用した形です)。非共有環境とは、子供が家族と共有していない環境、つまり学校や友人関係といった家族外での環境のことです。人間は社会的な動物(一人では生きていけない動物)なので、社会におけるポジション(社会的地位や年収など)に最も高い関心を払う、それは子供も例外ではなく、子供は学校や友人関係においてのポジション(男子なら誰が一番賢いか、誰が一番ケンカが強いか、女子であれば誰が一番可愛いか、どの男子と付き合っているのか、など)に最も関心を払い、家庭内のことには重きを置かない、というもの。要するに、子どもの性格は親の遺伝と学校や友人関係などの非共有環境で決まるので、親がどれだけ一所懸命子育てをしてもあまり効果はないということです。これはあくまで研究結果の一つに過ぎません。ただ、こう言われて、実際に思い当たる人は少なくないのではないでしょうか?もし、一所懸命子育てしているのに子供が真っ直ぐに育たなくて困っているという親御さんがおられれば、そういう方は責任を感じる必要は全くありません。子供が真っ直ぐに育っていないのは子供の非共有環境(学校や友人)が良くないのだから、親にできること、すべきことは、子供の環境を適切なものに変えてあげることです。

 では、子供にとって良い環境とは何か?それは、自分を高める努力をしている「尊い人」の近くに子供を置くことです。私自身、小学生の頃は少し荒れていたのですが、中学に上がって半ば強制的に柔道部に入部させられ、そこで自分よりもはるかに強い人達が、高みを目指して一心不乱に練習する姿を見て、自分の小ささを痛感すると同時に、自分もこの人達みたいになりたいと思いました。子供にとって一番大事なことは、そういう「尊い人」に出会えるかどうかです。

 勉強にしてもスポーツにしても、高いレベルにいる人ほど精神的成熟度も高いので、そういう人からは大きな刺激を受け取ることができます。なので、勉強に関していえば、なるべく偏差値の高い所に子供を行かせるのが無難ではあります。ただ、全員が全員、そういう「尊い人」から刺激を受けるかと言えば、そういうわけでもありません。偏差値の高い学校に合格したものの、そのカリキュラムについていけなくなったという場合、「尊い人」を見習おうとする子供と、現実逃避する子供です。後者は男子であればゲームやネットにはまり、それを成績の良い子供にも広げる。自分の子供が特定の友人と付き合いだしてから成績がガタ落ちしたという方もおられるのではないでしょうか?女子であれば、簡単に承認欲求を満たせる恋愛の中毒になり、そういう子供たちが派閥をつくって学校の空気を悪くしてしまいます。もし自分の子供がそういう状態になってしまった場合は、環境を変えるしかありません。子供を何か厳しめの部活動に入れるとか、近所のボクシングジムや空手道場に通わせるとか、場合によっては転校させるとか、とれる手段はいくらでもあります。いずれにせよ、説教して改心させようとは思わずに、淡々と対処するのが良いでしょう。

2018年3月 6日 (火)

思考を言語化する

 私が大学に入ってから最も苦労したこと、それは「上手く話せない」ということでした。学生同士で討論する場面で、言いたいことはあるのですが、それをうまく表現できない、論理的に組み立てられない。結局、つたない単語を組み合わせて当たり障りのないことを言うだけで「自分の意見」というものに昇華できない、そういうことが多々ありました。

 上手く話せなかった原因はいくつかあります。一つ目は、中・高時代に知識や解法を覚えることに偏り過ぎて、教科書という最高のツールを活用しなかったこと。教科書には必要なことがすべて載っています。「~だから~」、あらゆる記述が論理的に配列され、無駄な部分が1ミリもありません。この仕事をするようになって改めて教科書を読み直して、初めてその凄さに気づきました(特に理系科目)。結局、学校の教師達の言っていたことが正しかったわけですが、高校生の頃の私には教科書を読み込むだけの学力はありませんでした。それは中学時代に、教科書を読み込むことをしてこなかったためです。教科書の要点だけを押さえて本質的なことを理解しないまま問題集を解いて知識を固める、要領よくやったつもりでしたが、そのツケを高校以降に払うことになりました。

 二つ目は、国語教育に問題があります。国語(というか現代文)では、主に文章の読解のみが行われています。「筆者の主張を正しく解釈しろ」というものです。コミュニケーションは、①まず相手の言っていることを正しく理解して、そのうえで、②自分の意見を伝える、その繰り返しで成立します。①が正しくできないと、相手としては「いや、そんなつもりで言ったんじゃねえよ!」ということになり、コミュニケーションが成立しません。なので、①をすることは必要なのですが、問題は、②がほとんど行われていないことです(戦前であれば上官の言うことをきくだけの兵士を育てるため、戦後であれば上司の言うことをきくだけのサラリーマンを育てるため、国家にとって②は不要どころか有害でありました)。教育制度改革でどこまで改善されるのかは分かりませんが、今のままではいけません。②ができないと話を聞くだけで終わってしまうだけなので、もしかしたら男性は女性にモテるかもしれませんが。

 少し前に老荘思想と「断捨離」ブームが起こり、ミニマリストが増加し、その後に「承認欲求を捨てろ」というアドラー心理学が流行しました。これまでの拝金主義や学歴主義が崩壊し、人が人としての生き方を模索していることの表れに思います。国家や通貨も、もしかしたら崩壊するかもしれません。そうなると、大切なのは他者との精神的なつながりになります。自分がどういう思想や哲学を持っているのか、それを相手に伝えるためのコミュニケーション能力がより重要になってきます(要するに、学歴や金があってもモテないし、満たされないし、幸福感も感じられない、ということです)。そのためにも、普段から思考を言語化する癖をつけなければなりません。日記やブログを書くのもよし、誰かと好きな漫画や映画を語り合うもよし、割と女子は普通にやっていますが(ゆえに女性は昔からコミュニケーション能力が高いのです)、男子もしなければなりません。

 思考の言語化以前に、そもそも言語化ができないという人は、まずは語句の説明から始めてみると良いでしょう。例えば歴史の問題集では、「Q:民族と国家の利益を最優先する軍国主義的な独裁政治の体制を何というか。」「A:ファシズム」というような一問一答の問題がありますが、それを逆にする、つまり、「Q:ファシズムとは何ですか。」「A:ファシズムとは、~」という形にすれば、歴史の知識と言語化能力を同時に身に付けられるので一石二鳥です(文を丸暗記しろと言っているわけではありません。自分なりの表現ができればよいのです)。これから始まる大学入試制度改革で明言されているのが「総合的学力」の必要性、知識をいかに言語化できるかが評価の対象となります。勉強の難易度は上がりますが、それに早く対応できた人が勝ちます。

2017年11月23日 (木)

宿題について

 宿題とは?広辞苑によれば「学校で学習したことの復習または予習のため家庭でやらせる課題。」とのこと。ではなぜ、学校(や塾)は宿題を出すのか?それは反復させて問題を解けるようにさせるためです。例えば、子供に自転車の乗り方をマスターさせるには乗り方を教えるだけではダメで、実際に自転車に乗せて練習させないと乗れるようにはなりません。それと同じで、学校や塾で解き方だけ教わっても実際に解かせてみないと解き方は身につきません。

 「宿題をちゃんとしているのに、テストでは点数がとれない」そういう子供が多々います。そういう子供はたいてい、宿題を一回しかしていません。一回やってみて間違えた問題を直しをしただけで終わってしまっているため、テストでは点数をとれません。間違えた問題が解けるようになるためには、その問題を自力で解けるようになるまで何回も何回もしなければなりません。直しをして理解しただけでは足りません。「理解」と「解ける」は完全に別物なんです。

 宿題をしないと解けるようにならないのに、なぜ成績の悪い子供は宿題をしないのか?まず第一に、周りに勉強よりも楽しいことがあるため、それに流されているというパターンです。「楽しいこと」とは、現在は主にネットとゲームです。この場合の対処法は簡単、「勉強よりも楽しいもの」を処分すればいいだけの話です。それは保護者にしかできませんし、それができないのであれば、子どもの勉強での成功はあきらめるしかありません。

 第二に、その宿題の難易度がその子のレベルに合っていないというパターンです。宿題というのは基本的に不特定多数を対象に出されるものであるため、そのレベルについていけない子供にとっては、宿題は苦痛でしかありません。この場合は、宿題の中でも自分にできること「だけ」をするしかありません。もし今勉強している範囲より以前でつまづいている場合は、そこに戻ってやり直すしかありません。人にはだれしも、「ここまでなら頑張れる」というラインがあります。そのぎりぎりのラインを拾っていければ、学力は身に付けられます。

 逆に、宿題がその子にとって不要なものであるパターンもあります。ある程度学力が高まれば、自分にとってその宿題が必要か不要かというのは容易に判断できるようになります。自分にとって優先すべき科目の課題があるのに、他の科目からの大量の宿題に時間をとられ、本来やるべきことに時間を割けない。そういう思いをしている人(特に高校生)は多いのではないでしょうか?そういう人は自分の直感を信じるべきです。私自身も、明らかに「これ、無駄だろ」と思う宿題は全くしませんでした。学校からすれば宿題をしていなくても結果さえ出していれば問題はないので、適当にやったふりして答えを丸写ししても特に問題ありません(あくまで、やらなくても「できる」のが前提です)。

 繰り返しになりますが、宿題というのは不特定多数を対象にしているものです。宿題が個々人のニーズに合わないのはむしろ当然なのです。本来、子どもが自主的に復習できるのであれば、学校は宿題を出す必要なんてありません。自分のことは自分にしかわからないのですから、最終的には自分で課題を設定して自分で復習をしていかねばなりませんし、そうしないといつまで経っても学校に依存してしまうことになります。

2017年11月16日 (木)

努力について

 「努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力している。」かのベートーヴェンの言葉です(てっきり、『はじめの一歩』の鴨川会長のオリジナルの台詞だと思ってました)。勉強にしろスポーツにしろ、努力なしに成功することはできないということでしょう。辞書によれば、「努力」とは「目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。」とのこと。ある人は子供に対し、「寝る間も惜しんで勉強しろ!」「苦しくても歯を食いしばって努力しろ!」と仰っていました。そうなると、私自身は「努力」はできないですね。少なくとも私は、寝る間を惜しんだり苦しいのを我慢すると、「もう二度とやりたくねー!」と感じ、ますます勉強が嫌いになりました。ベートーヴェンの言う「努力」が日本語の「努力」と同じ意味なのか、そのあたりはよくわかりませんが、ベートーヴェンが「私は、自分に課せられていると思っている創造を全てやり遂げずに、この世を去るにはいかないのだ。」と言っているあたり、ベートーヴェンには創造に対する内面的衝動が先にあり、それに体がついていけない(難聴と肝硬変)から努力したという感じでしょうか。少なくとも、外からあーだこーだ言われて嫌々努力したという感じではないようです。

 私自身、大学受験のときは、自分では努力したと思っております。ただ、「寝る間を惜しんで」とか「歯を食いしばる」とか、そういう思いは全くしていません。自分がやるべきことをやっていたら、いつの間にか時間が過ぎていた、そういう感覚です。要するに、いつの間にか勉強に没頭していた、ハマっていたという感覚です。結果的に睡眠時間が短くなることはありましたが、それはあくまで没頭の結果であり、そこに負の感情はありませんでした。なぜハマれたかというと、自分で立てた戦略が自分にとって無理のないものだったからです。どうすれば気持ちを切らさないでいられるか(家庭での環境づくり)、今の自分は何ができるか、どのレベルなら頑張れるか、いかに無駄なこと(主に学校の課題)をしないで済ませられるか、そういうところを正しく自己分析して戦略を立てられれば、あとはそれに従えば何ら苦ではありませんでした。努力は主体性ありきです。疲れたらすぐに休みましたし、眠くなったら眠りましたし、遊びたくなったらすぐに遊びました。仮に当時、眠いのを「我慢」して勉強していたり、自分のレベルや方向性にまったく合わない学校の課題をクソ真面目にやっていたり、遊びを一切シャットアウトしていたら、間違いなく途中で挫折していたと思います。

 日本人は努力が大好きです。努力なしに成功できないのは間違いないでしょう。ただ、努力の方向性に関しては、未だに戦前のメンタリティがそのまま残っている印象です。つまり、圧倒的なアメリカとの戦力差を「気迫でなんとかしろ!」というもの。戦前のメンタリティが残っている人は、他人が壁にぶつかっているのを精神力で超えるよう強要してきます。子供に「寝る間を惜しめ」とか「歯を食いしばれ」とか言っている人もしかり。そういう精神論を強要された子供たちが言うとおりに勉強するかと言えば、実際にはほとんどしないでしょう。精神論以前に、家が勉強に集中できない環境であったり、そもそも勉強の難易度がその子供に合っていなかったり、子どもの食生活や睡眠時間が乱れていたり、子供が運動不足であったり、先に改善すべきことがいくらでもあるのに、それらを全部すっ飛ばして「精神力で何とかしろ」と強要します。精神論=ノープランです。戦前の日本は、アメリカに特攻を仕掛けて玉砕しました。子供が玉砕する前に、試すべきことはいくらでもあります。

2017年1月 1日 (日)

ゲーム・スマホの弊害について

 今まで様々な生徒を教えてきましたが、成績の悪い生徒に共通しているのは、長時間ゲームやスマホ(ネット)ばかりしているという点です。私はその親御さんたちにゲームやスマホを処分するよう伝えますが、ほとんど実行してもらえません。実際のところ、親御さんたちにはゲームの危険性が全く認識されていない印象です。「子供がゲームやスマホばかりして全く勉強しない!」それでお悩みの親御さんたちにはぜひ、精神科医である岡田尊司さんの新書『インターネット・ゲーム依存症 ネトゲからスマホまで』、あるいは『脳内汚染』(こちらは古い版になります)を読んでいただきたい。

 以下、内容を簡単に紹介します。ゲーム(あるいはスマホ)をすると脳内で大量のドーパミン(達成感を味わったり、喜びを感じた時に分泌されるホルモン)が放出され、その量は覚せい剤を使用したときに匹敵するそうです。そのため交感神経が活発になり、夜眠れなくなります。また、ドーパミンの大量放出の結果、ドーパミンの生成に大量のエネルギーが消費されるため(要は「疲れる」ということ)、結果、勉強において注意力や集中力の低下、記憶力が著しく低下します。また、ドーパミンを大量に使用すると、脳に耐性ができてしまい、より多くのドーパミンがないと脳が働かなくなってしまいます(サイコパスと同じ脳の状態です)。要するに、ゲーム以上の刺激のあるものでないと、何をやっても楽しく感じられなくなってしまうのです。そして楽しく感じられない状態が続くことにより、鬱や無気力が生じてしまいます。中には自殺するケースもあるそうです。

 これだけゲームとスマホの危険性が明確であるにもかかわらず未だにその認識が浸透していないのは、テレビ局(正確には、NHKを除く民放)に原因があります。ゲーム会社やスマホ会社はテレビ局に莫大なCM料を払ってゲームやスマホを宣伝します。その結果、テレビ局はスポンサーであるゲーム会社やスマホ会社に不利益な情報を流さないように配慮します。「スポンサー様の不利益な情報は流さない」テレビのこういう姿勢はゲームやスマホに限った話ではありません。かつてテレビ局は、法定利息のグレーゾーンを悪用して儲けていた金融業者(いわゆるサラ金)を散々批判していましたが、その金融業者がスポンサーになった途端に批判を一切やめ、それらの金融業者のCMを流しまくりました。最高裁で「グレーゾーンは違法」という判決が下されたことで債務整理(過払い金払い戻し)が一斉に行われ金融業者はどんどん潰れていきましたが、そのCMをバンバン流していたテレビ局は全く責任を取りませんでした。テレビ局はそういうものだと認識しておかねばなりません。

 「でも先生、この子、ゲームをさせると落ち着くんですよ~」たまにこう言う親御さんもおられますが、これって、ヤク中の子供に「でも先生、この子、クスリ打ってあげると落ち着くんですよ~」と言っているのと同じことです。あるいは「でも先生、ゲームとネットを禁止したら、今度はテレビばっか見るんですよ!」「そしてテレビを禁止しても、今度はマンガばっか読むんですよ!」こういう親御さんもおられますが、全然かまいません。ゲームやスマホの弊害の大きさに比べれば、テレビや漫画の方がはるかにマシです。こうやって徐々に害の少ない遊びに代えていけばいいのです。

 問題なのは、親が子供がゲームやスマホばかりしていることをまったく認識していない場合があることです。「自分の部屋じゃないと勉強に集中できない」こう言って自分の部屋にこもっている子供、成績が酷い状態であれば、まず疑ってかからねばなりません。真面目に勉強しているのに成績が酷いなんてことは通常はあり得ません。現在のゲームは小型化し、ネットもスマホやタブレットなどの小型通信機器を利用すれば、親に隠れていくらでもプレイできてしまいます。親がそれらを隠しても、子供は全力でそれを探し出し、こっそりとやっているのです。自分の子供を疑うのは嫌でしょうが、隠しカメラでも仕掛けて子供が実際に自分の部屋で何をしているのかを確かめねばなりません。

 「ゲームやスマホが悪いんじゃないよ。やり過ぎるのは自己責任だろ?」そう仰る方もおられるでしょう。私もその意見には同意します、成人に限って言えば。子供にそこまでに自制心があるでしょうか?ゲームやネットは悩み事をすべて吹き飛ばしてくれます。ゲームやネットで現実逃避し続け、そしてそのまま高3を迎え、否が応でも将来と向き合わざるを得なくなり、そこで初めて自分自身の絶望的な現状を認識し、精神的不調、ひいてはうつ、自殺ということになりかねません。他人からすれば「自業自得だろ」の一言で済みますが、親にしてみれば自分の子供が将来に絶望して苦悶する姿は見るに堪えないでしょう。そうなる前に、親が行動しなければなりません。子供を守れるのは親だけなんです。

2016年7月29日 (金)

人権作文について

 毎年中学生用の課題として出される人権作文ですが、「人権」なんて言ったって子供にはぴんと来ないのではないでしょうか?かつては、政府に都合の悪い書物は読むのを禁止され(知る権利の侵害)、身分制度により自分のやりたい職業にもつけず(職業選択の自由の侵害)、好きな相手とも結婚できず(婚姻の自由の侵害)、政府の批判をすれば警察に捕らえられ(表現の自由の侵害)、まともに裁判を受けられず(裁判を受ける権利の侵害)、選挙権すら認められない、そのような時代がどの国にもありました。しかし現在では人権は厚く保障され、人々は何不自由なく生活できるようになりました。そういう現状で、人権の大切さを子供に認識させるのはなかなか難しいことです。

 ただ、子供にも人権の制約がないわけではありません。子供には飲酒や喫煙の自由がありません(「~の自由」は人権のうち「自由権」に含まれます)。しかしこれらを制約するのは子供の健康を守るためであり、その制約には合理的な理由があります(これを「公共の福祉」といいます)。これらの人権は、子供を守るという利益に比べたら、それほど重要な権利ではありません。あるいは、例えば医療ドラマを見て感動した中学生が「よーし、明日から医者として働くぞ!」と思っても医師免許がないので医者として働けません。この場合、医師の免許制度は中学生の「職業選択の自由」を制約していることになりますが、医療知識のない人が患者の治療をしても効果がないどころか、患者が死んでしまうことになるため、この制約には理由があります。しかし、例えば、部活動で試合中にミスをして顧問にビンタされた、こういう場合、その生徒の「身体の自由」は侵害されていることになります。顧問からすれば「生徒を教育する権利(教育権)」の範囲内だ(いわゆる「愛のムチ」)と反論することになるでしょうが、ではこのビンタは教師の「教育権」の範囲内と言えるのか、「身体の自由」この場合「殴られない自由」は顧問の「教育権」により制約されるだけの合理的な根拠があるのか?ビンタが教育権の範囲外であるならば、それは人権侵害になります。あるいは授業中に生徒が教師の質問に答えられないとき、教師から「アホ!」などと罵られたり「こんなんも分からんの?」と小馬鹿にされた場合、こういう発言は教師の「教育権」の範囲内なのか、生徒の「名誉感情」を教師の「教育権」で侵害できるのか?これらの発言が教育権の範囲外であるならば、それは人権侵害になります。あるいは、中学受験を控えた生徒が「学校に行かんと家で勉強したい」と言ったとき、学校が「学校に来て授業を受けろ!」と強制してきた、この場合、生徒の「(自分で)学習する権利」と学校の「教育権」とがぶつかることになりますが、果たして学校の教育権は生徒の自宅学習の権利を制約できるのか、問題となります。あるいはもっと単純な例で、「勉強したくない!」という子供に対して親が「勉強しろ!」と強制することは許されるのか、この場合、子供の「勉強をしない自由」と親の「教育権」が衝突することになりますが、親に教育権の優越を主張できるだけの合理的理由がない限り、それを強制するのは子供の人権侵害になります。今、関西テレビで『ウォーターボーイズ』の再放送がされていますが、生徒達が「学園祭でシンクロ公演をしたい」という主張に対して、学校側が「受験勉強に専念させるため、公演は認めない」と言ってきた場合、このような制約は認められるのか?シンクロ公演をする自由は「表現の自由」に含まれますが、学校側の教育権、この場合、「生徒達の将来ために受験勉強に専念させて良い大学に行かせる」という理由で制約できるのか?

 長々と書きましたが、要するに、人権あるいは人権侵害というのは日常生活のあらゆる場面でいくらでも問題になり得るということです。学校によっては「犯罪被害者の人権について」だの「アイヌ民族の人権問題について」だの、やたらと壮大なテーマが出されたりしますが、そういう日常生活からかけ離れたものでなくても、まずは身近なところから人権意識をつけていった方がいいように思います。

2016年6月10日 (金)

学歴について

 著名人はそろって「学歴なんか関係ない!」と仰いますし、私もその意見に賛成です。学歴はあくまでその人の一定の期間の学力を示したものに過ぎませんので、大学時代に遊び呆けてどれだけ学力が落ちようが学歴で評価するのは妥当ではありません。その学力というものも、あくまで事務処理能力の高さに過ぎません。ただ、これを「だから勉強なんてする必要ない!」と曲解して怠ける人が少なからずいます。成功した人は別として、「学歴なんて関係ない!」と言っている人たちは、学歴に代わる信用を何か持っているのか?甚だ疑問です。勉強するのもしないのも本人の自由ですが、勉強しないことで受ける不利益は覚悟しておかねばなりません。

 就職先の見つからない大学生が、「結局、企業は学歴で選んでいるじゃないか!学歴差別だ!!」などとよく泣き言を言いますが、企業からすれば学歴があろうがなかろうが、戦力になればなんでもいいのです。企業に就職したければ、学歴のハンデを覆す別の信用を4年間で作ればいいだけの話。結局その人に何も信用がないから、企業は消去法で学歴で判断するしかありません。「何もない奴よりは、事務処理能力だけでもある奴の方がマシ」ということです。それを「学歴差別だ!」などと言われても、企業からすればいい迷惑です。ただ、逆に言えば、学歴にはそういう消極的な信用力しかないということです。どれだけ高学歴でも、個人の信用を持っている人には敵いません。なので、受験生の方々は学歴そのものに過剰期待しない方がいいです。

 もっとも、学歴のある人が有名企業に就職したからといって、必ずしも幸せになれるわけではありません。有名企業ならある程度の高収入は保障されるでしょうが、仕事にやりがいを感じられない、労働環境がブラック過ぎる、という理由ですぐに辞めていく人が少なくありません。また、既存の企業は同業種同士でパイを奪い合う状態、新しいイノベーションを起こせない限り、東芝やシャープのように倒産してしまうリスクも常にあります。それでも就職するか、起業するか、フリーで生きていくか、自分で悩んで考えて結論を出さねばなりません。その前提として、やはりある程度の学力は必要ではないでしょうか?

2016年4月23日 (土)

コスパについて

 少し前に読んだ百田直樹さんの『大放言』という本の中に、「何でもコスパで考えるバカ」という一説がありました。若者が何でもかんでもコスパ(コストパフォーマンス)で考え、「結婚はコスパが悪い」「車はコスパが悪い」と合理的に何でも考える若者を「何か大事な価値観が抜けている」と批判されています。百田さんは若いときに金が無かったにもかかわらず車を買い、そのせいで金銭的に苦労されたそうですが、その車のおかげで豊かな人生を送れた、コスパでは測れない大きな満足感を得られたとおっしゃっています。

 勉強においてコスパを考えることは決して悪いことではありません。むしろ、限られた時間で最も効率の良い勉強法を考えるのは非常に有意義なことです。しかし、何でもかんでもコスパで考えると弊害が出てきます。以前教えていた生徒ですが、彼は偏差値70近い高校に入学できたまでは良かったものの、その後カリキュラムについていけず、学年最下位のままゲーム三昧の日々を送っていました。英単語帳から「この単語の意味、言ってみて」と出題すると、一問も答えられないという状態でした。本人曰く、「やらなあかんのはわかっているけど、やる気が起きない」とのこと。そこで私は書いて覚えることを勧めたのですが、彼は「でもなぁ~、(書くのは)効率悪いからなぁ~」と一言。確かに書いて覚えるというのはコスパは悪いですが、毎日朝方までゲームをするぐらいなら、その時間を1時間でも書いて覚える時間に回すぐらいわけないはずなのですが、おそらく、「もっと楽して覚える方法ないかなぁ~」というのが本音でしょう。そんな簡単な方法があれば誰も苦労しません。その生徒ですが、一事が万事、数学に関しても、「まずは基本だけやってみよう」と勧めても、「でもなぁ~、それだけできてもテストでは点取れないからなぁ~」で、結局テストではその基本すらも正解できません。その生徒から将来の進路について意見を求められたため、私は「アニメやゲームが好きなら作家か脚本家を目指せば?(その生徒は文系)」と勧めたところ、「でもなぁ~、なれるの一部やしなぁ~」「下積み時代の給料、激安やからなぁ~」とのこと。要するに、「楽して、かつたくさん稼げる仕事がいい」のでしょう。んな仕事、あるかい!

 そもそもコスパで考えるのであれば、学校に行かず独学すればよいのです。最も効率の良い勉強方法は、間違いなく独学です。自分のペースで勉強できますし、何よりお金がかかりません。独学で高認取って、それで大学に進めばいいのです(もっと言えば、これからは学歴の価値がますます下がる時代なので、大学に行かず図書館でタダで知識を得て学力を高めた方が遥かにコスパがいいでしょう)。ただ、実際にそれをできるのは、よほどストイックで自制心のある人だけでしょう。何でもかんでもコスパで考える人は、感情というものを置き去りにします。効率の良い完璧な計画ばかりを立てるのはいいものの結局長続きせず、そのまま卒業まで惰性で過ごすというパターンの方が多いでしょう。勉強をする時に基準にすべきは、満足感や達成感です。「ああ、今日俺頑張ったなー」と思えるような一日を過ごすべきです。