その他

2019年5月20日 (月)

身近なライバル見つけましょう

 私が小学生の頃、『キン肉マン マッスルタッグマッチ』というファミコンソフトが発売されました。このゲーム、はっきり言ってクソゲーなんですが、当時のキン肉マンブームと相まって結構ヒットした記憶があります。なぜクソゲーか?それは登場キャラ(超人)のうちの一人であるブロッケンJr.が異常に強すぎて、ゲームバランスを崩してしまっているからです。このブロッケンJr.、原作での噛ませ犬的な扱いとはうってかわってゲーム内では鬼神の如き強さを誇り、対戦プレイでブロッケンJr.を選べばほぼ100%勝利は確実、必殺技「ナチスガス殺法(元々はJr.の父親のブロッケンマンの必殺技なんですが)」で相手をひたすらハメ殺しするだけで相手は何もできません。で、あまりにブロッケンJr.が強すぎたため、だんだんみんな白けてくる。そして最後は「ブロッケンJr.は使用禁止」というルールが決められるようになりました。

 どんな分野にもブロッケンJr.みたいなチートキャラが存在します。そして近くにそういうチートキャラがいると、周りは競争する気を失くしてしまいます。「頑張ったってあいつ(ら)には勝てねえ」と。こういうチートキャラを意識するのは精神衛生上宜しくない。「あの人たちは別世界の住人たち」と割り切ってその人たちのことを意識しないようにして、まずは自分と同レベルの身近なライバルを見つけて切磋琢磨した方が上手くいくと思います。自分より高いレベルの人の成績がさらに上がっても「へー、すごいね(棒)」という感じですが、自分と同レベルの人の成績が上がると「やべえ!」と焦るもんです。こうやって同レベルの人同士で切磋琢磨していけば、徐々にでも成績を上げることができます。

 なお、ライバルと言っても、成績が同じくらいであれば誰でもいいというわけではありません。ライバルに選ぶべきなのは「熱い人」「真面目な人」「努力している人」です。そういう人からはパワーをもらえる。逆に、絶対に選んではいけないのは、①他人の努力を笑う奴、②他人の陰口や愚痴ばっか言ってる奴、③見栄を張る奴、です。そういう奴とは速攻で絶縁した方がいいです。「朱に交われば赤くなる」です。「居心地がいいから」と愚痴を言い合って傷をなめ合うような関係はいただけません。もしライバルを見つけたら、たとえその相手からウザがられても、勝手にライバル視して勝手に競い合えばいいのです。

2019年5月11日 (土)

デザインは割と重要だと思う

 某私立の女子の制服がダサい。新紙幣のデザイン並みにダサい。男子の制服は普通なのに、女子のは「なんかの罰ゲームですか?」と思うほどダサい。生徒本人がどれだけ美人でも、その制服を着るとダサく見えてしまうという呪いのアイテム。これは私だけの個人的意見ではなく、実際そこの生徒たちに聞いてみても「クソダサい」「マジ最悪」「駅前歩くの恥ずかしい」という声がほとんど。昔から「ダサい」と言われ続けているのに敢えてデザインを変えないのは、ダサい制服を着させることで男を寄り付かせないようにして勉強に専念させようという深い教育的配慮があるのかもしれません。

 私は未だにガラケーを使っておりますが、この度ドコモが新料金プランを導入するのを機に、スマホに機種変更しようと思います。そこで悩んでいるのがi phone(ios)かスマホ(android)か、どちらにするか。現在のところ、スペックとコスパを考えるとgoogleのpixel 3aにしようかと思っているのですが、本音はやっぱりi phoneが欲しい。それはデザインがかっこいいから。でも高い。ヤマダ電機で実物を見比べても、やはりi phoneはかっこよかった(操作もスルスル反応してよかった)。仮に同じスペックで同じ価格帯であるなら確実にi phoneを選ぶでしょう。やはり見た目は重要です。自分の気に入った物を身につけていると気分が上がる、ってことは誰にでも経験あると思います。よほど実用性を犠牲にしているのでなければ、たいていはデザイン重視になるのではないでしょうか。制服も同じ。成績の悪い女子生徒はもしかしたら、ダサい制服のせいでテンションが下がり、勉強に身が入っていないのかもしれません。

 そもそも「制服って必要か?」とは思いますね。組織に絶対服従の兵隊を養成したいのであればそれでいいかも知れませんが、これからの個の時代、制服って時代遅れな気がします。それに制服って結構いい値段するので、経済格差が広がっている中、低所得世帯には結構痛手になるのではないでしょうか。大学時代に知り合ったモード学園の生徒曰く、「学校は絶対に私服にすべきだよ!だって人間、着てる服で性格分かるじゃん。」とのこと。確かに。若いうちに、限られた予算の中で、自分に似合うものを選んで身に付けるのって、結構いいと思いますね。美意識が鍛えられる。ジョブズが死んで全然イノベーティブじゃなくなったappleがガンガン収益を出しているのも結局、デザイン重視でハイブランド化したからです。制服を「ダサい」と言っている私も、他人から見たらクソダサい格好をしているかもしれません。でも自分で選んだ服を自分が好きで着ているから、別にいいんです。対して、高い金を払ってダサい制服を着なければならない子供達はかわいそうです。「絶対に制服じゃないと駄目!」だというのであれば、せめてデザインだけでも変えてあげればいいのに。

2019年4月 8日 (月)

学校について

 親御さんからの学校に関するよくある質問のうち、「~校ってどんな学校ですか?」という質問に対しては(私の知っている範囲で)答えられますが、「~校ってどうですか?」という質問には答えにくいです。その学校がどういう教材を使っているか、どれくらいのレベルの試験問題が出されているか、どれくらいのペースでカリキュラムが進められているか、そういうことに関してはお答えできますが、評価となるときわめて主観的なものになります。私個人が「ここは凄く良い」と思っても、他の人は「ここが良くない」と思うかもしれませんし、逆もまた然り。同じ教師の授業でも「わかりやすい」と感じる人もいれば「わかりにくい」と感じる人もいます。宿題の量が「多すぎる」と感じる人もいれば「ちょうどいい」と感じる人もいます。ただ一つ、「現時点でその子供が、その学校のレベルに合っているかどうか」ということは分かります(子供の学力そのものよりも、子供が精神的に成熟しているかどうかの方が重要です)。

 中学にしろ高校にしろ大学にしろ、おそらくほとんどの受験生は、少しでもレベルの高い学校を目指すことでしょう。そこを目指して勉強することは非常に尊いことです。ただ、勉強して学力を高めることと、合格してその学校でやっていけるかどうかということに関しては分けて考えなければなりません。頑張って有名進学校に合格できたのは良かったものの、その後その学校のカリキュラムに全くついていけなくなり、次第に勉強意欲を失ってしまって廃人化してしまうなんてことはよくあることです。実際、どれだけ偏差値の高い学校でも、有名大学に進学できているのは上位層だけですから。仮定の話をするときりがないのですが、例えば西高でカリキュラムに全くついていけず、勉強意欲を喪失して家でずっとゲームばかりしているような子供、こういう子供も、もう少し偏差値の低い高校に行っていたら良い結果が得られたんじゃないかと思うことがあります(もちろん、もっと悪くなっていた可能性もあります)。

 未だによく誤解されていることですが、「有名進学校からじゃないと有名大学に行けない」なんてことは決してありません。料理でも良い素材を使えば味が良くなるのと同じで、地頭が良い子供を集めれば合格実績が良くなるのは当たり前のことなんです。重要なのは「その子供がその学校に合っているか」そこだけです。偏差値が高いから有名大学に行けるわけではありませんし、逆に偏差値が低いから有名大学に行けないなんてこともありません。結局は本人次第、学校はあくまで手段なんです。子供にとって最適な手段を選べたかどうか。「そんなこと言ったって、実際に行ってみなければわからないじゃないか!」全くその通り。なので、入学して以降、子供が全く勉強しなくなって遊び狂っていたり荒れまくってたりしたら、さっさと辞めさせて別の学校に編入させた方が良いです。「これから新生活が始まるって言うのに、なんて不吉なことを言うんだ!」と気分を害された方がおられたら申し訳ありませんが、実際、そういう廃人化してしまった子供を散々目の当たりにしてきたので。人間、もしものことを想定しておかねばなりません。

2019年3月 4日 (月)

やらせてみないとわからない

 全く勉強しない子供に対して、親が「あんた、将来どうやって食べていくのよ!」と質問すると、「ウメハラみたいなプロのゲーマーになりたい」あるいは「youtuberになりたい」と答える子供。それに対して親が「それで食べていけるのなんてほんの一握りだけなのよ!いい加減目を覚まして、勉強しなさい!」と言ったところで、子供が勉強することはないでしょう。「なれるのは一握り」なんて、実際にやってもいないうちに言われても実感が湧かないからです。そういう子供には、実際にやらせてみればよいのです。子供が「プロのゲーマーになりたい」と言うのであれば子供をゲームの大会に出させてみればいいですし、「youtuberになりたい」と言うのであれば実際に動画撮らせてアップさせてみればよいのです(ここで行動しない子供は、所詮その程度の気持ちしかなかったということです)。それでゲームの大会で良い結果を残せたり動画で大金稼げたりできれば、その子供にはその才能があるので、そのまま突き進めばよいでしょう。大会ですぐに負けてプロのレベルの高さを痛感したり、動画の視聴回数が全く伸びなかったりすれば、諦めて別の選択肢を考えるかもしれませんし、無難に勉強するようになるかもしれませんし、あるいはその道でもっと努力や工夫をするようになるかもしれません。大事なのは本人が納得することです。納得させるには、実際にやらせてみるしかありません。やってもいないうちから「なれるのは一握り」だとか論外です。モヤモヤした感情を抱えたままの子供に対して「勉強しろ!」と言ったところで、しません。

 「将来は声優になりたい!」という夢を持つ子供に対して「なれるのは一握り。そんなものより、堅実な仕事を選びなさい」と言う親。今時、堅実な仕事なんてあります?私の学生時代は医者と弁護士が花形職業でしたが、司法制度改革によって弁護士の数が大量に増加した結果、年収200万円以下の弁護士が急増しました。AIによって将来的には士業はことごとくなくなるという予想も出ていますね。医者も将来はわかりません。AIによって医療技術が急激に発達した結果、医者も不要になるという時代が来るかもしれません。将来のことなんて誰にも分らないのです。「堅実な仕事」なんてありません。むしろ将来のことが分からないから、どんな状況にも対応できるように色々なことを勉強して(学校の勉強に限らず)、学力を高めるだけ高めておくべきでしょう。「本当は声優になりたかったのに…」そういう思いを抱えたまま残りの長い人生を過ごすのって、結構きついと思います。子供が声優になりたいのであれば、試しにオーディションだけでも受けさせてみればよいのです。それで本人が納得できるはず。「なれるのは一握り」これ、禁句です。「あんたの気が済むまで、思う存分やってみなさい!」こういう親、最高にカッコいいですね。

2019年1月 2日 (水)

進学校で落ちこぼれが生まれる理由

 勉強でもスポーツでも、いわゆる名門校があります。スポーツの名門校には、そのスポーツでの各地方のエース級の子供たちが集まってきます。そのエース級の子供たちの中でもレギュラーになれるのはごく一部、毎日死ぬほど練習しても補欠にすら入れない子供が多々います。ただ、そういう補欠にすら入れなかった子供が普通の学校に転入したとしたら、その学校では即エースになれるでしょう。それは、その子供が名門校で死ぬほど練習してきたからです。

 勉強の名門校でも、各学校の賢い子供たちが集まってきます。その賢い子供たちの中でも上位層に入れるのはごく一部です。ただ、上位層に入れなかった子供が普通の学校に転入しても、中間層は微妙ですが、下位層はそこでも下位層になるでしょう(経験上、進学校の下位層の学力のヤバさを散々目にしてきました)。それは、その子供が全く勉強(練習)してこなかったからです。

 こう言うと、「子供達は学校でちゃんと授業を受けているじゃないか?授業を受けることがスポーツでいうところの練習じゃないか?」と思われるかも知れませんが、ここ、大多数の方が誤解されていますが、授業というのはあくまで「練習のやり方」を教えているだけです(そして教師の教え方が上手いと、子供は練習しやすくなります)。やり方だけ教わっても、練習しないと学力が上がることはあり得ません。そして勉強における練習とは「宿題」です。基本的に、成績が悪いのは練習していない、つまり宿題をしていないからです(ちゃんと宿題をしているのに成績が悪い子供、そういう子供は復習量が足りません)。

 成績の悪い子供の親御さんはたいてい、とりあえず子供を塾に行かせますが、少し考えて欲しい。学校の授業がさっぱりわからない子供や、学校よりも高いレベルのことを学びたい子供は塾に行った方がいいと思います。対して、学校の授業内容は理解しているけど家で宿題していないだけの子供、そういう子供は塾で授業を受けても意味がありません。「やり方」教わった後に「やり方」教わっても全く意味がありません。こういう子供は学校の図書館や自習室などで勉強させるのが一番良いです。スポーツの場合は仲間と一緒に練習をするから頑張れますが、勉強の場合は基本的に家で一人でしなければなりません(勉強がスポーツより大変なところはここです)。そして家は基本的にリラックスする場所なので、本来勉強するには向いていません。

 経験上、宿題をしてこない子供を教える場合、やむを得ず一緒に宿題をしていくことになりますが、これだと宿題を消化するのに時間を使い切ってしまい、復習に時間を割けません。宿題が最初から全然わからない子供、宿題をできるのにしてこない子供、こういう子供は、コスパで考えたら、家庭教師よりも個別指導の方がいいと思います(他の家庭教師の方々のことは全く存じ上げませんが、少なくとも私が教えるには向いていないと思います)。私としては、子供には宿題のうち自力で解けるところだけ解いてきてもらい、授業では子供の分からなかったところ、間違えたところ、解くのがしんどいところだけ集中的にやっていき、類題を解かせて復習をして固めていきたいと思っております。

2018年3月 6日 (火)

思考を言語化する

 私が大学に入ってから最も苦労したこと、それは「上手く話せない」ということでした。学生同士で討論する場面で、言いたいことはあるのですが、それをうまく表現できない、論理的に組み立てられない。結局、つたない単語を組み合わせて当たり障りのないことを言うだけで「自分の意見」というものに昇華できない、そういうことが多々ありました。

 上手く話せなかった原因はいくつかあります。一つ目は、中・高時代に知識や解法を覚えることに偏り過ぎて、教科書という最高のツールを活用しなかったこと。教科書には必要なことがすべて載っています。「~だから~」、あらゆる記述が論理的に配列され、無駄な部分が1ミリもありません。この仕事をするようになって改めて教科書を読み直して、初めてその凄さに気づきました(特に理系科目)。結局、学校の教師達の言っていたことが正しかったわけですが、高校生の頃の私には教科書を読み込むだけの学力はありませんでした。それは中学時代に、教科書を読み込むことをしてこなかったためです。教科書の要点だけを押さえて本質的なことを理解しないまま問題集を解いて知識を固める、要領よくやったつもりでしたが、そのツケを高校以降に払うことになりました。

 二つ目は、国語教育に問題があります。国語(というか現代文)では、主に文章の読解のみが行われています。「筆者の主張を正しく解釈しろ」というものです。コミュニケーションは、①まず相手の言っていることを正しく理解して、そのうえで、②自分の意見を伝える、その繰り返しで成立します。①が正しくできないと、相手としては「いや、そんなつもりで言ったんじゃねえよ!」ということになり、コミュニケーションが成立しません。なので、①をすることは必要なのですが、問題は、②がほとんど行われていないことです(戦前は上官の言うことをきくだけの兵士を育てるため、戦後は上司の言うことをきくだけのサラリーマンを育てるため、国家にとって必要なのは①だけであり、②は不要どころか有害でありました)。教育制度改革でどこまで改善されるのかは分かりませんが、今のままではいけません。②ができないと話を聞くだけで終わってしまうだけなので、もしかしたら男性は女性にモテるかもしれませんが。

 少し前に老荘思想と「断捨離」ブームが起こり、ミニマリストが増加し、その後に「承認欲求を捨てろ」というアドラー心理学が流行しました。これまでの拝金主義や学歴主義が崩壊し、人が人としての生き方を模索していることの表れに思います。国家や通貨も、もしかしたら崩壊するかもしれません。そうなると、大切なのは他者との精神的なつながりになります。自分がどういう思想や哲学を持っているのか、それを相手に伝えるためのコミュニケーション能力がより重要になってきます(要するに、学歴や金があってもモテないし、満たされないし、幸福感も感じられない、ということです)。そのためにも、普段から思考を言語化する癖をつけなければなりません。日記やブログを書くのもよし、誰かと好きな漫画や映画を語り合うもよし、割と女子は普通にやっていますが(ゆえに女性は昔からコミュニケーション能力が高いのです)、男子もしなければなりません。

 思考の言語化以前に、そもそも言語化ができないという人は、まずは語句の説明から始めてみると良いでしょう。例えば歴史の問題集では、「Q:民族と国家の利益を最優先する軍国主義的な独裁政治の体制を何というか。」「A:ファシズム」というような一問一答の問題がありますが、それを逆にする、つまり、「Q:ファシズムとは何ですか。」「A:ファシズムとは、~」という形にすれば、歴史の知識と言語化能力を同時に身に付けられるので一石二鳥です(文を丸暗記しろと言っているわけではありません。自分なりの表現ができればよいのです)。これから始まる大学入試制度改革で明言されているのが「総合的学力」の必要性、知識をいかに言語化できるかが評価の対象となります。勉強の難易度は上がりますが、それに早く対応できた人が勝ちます。

2017年11月23日 (木)

宿題について

 宿題とは?広辞苑によれば「学校で学習したことの復習または予習のため家庭でやらせる課題。」とのこと。ではなぜ、学校(や塾)は宿題を出すのか?それは反復させて問題を解けるようにさせるためです。例えば、子供に自転車の乗り方をマスターさせるには乗り方を教えるだけではダメで、実際に自転車に乗せて練習させないと乗れるようにはなりません。それと同じで、学校や塾で解き方だけ教わっても実際に解かせてみないと解き方は身につきません。

 成績が悪い子供は殆ど、宿題をしていません(宿題をしているのに成績が悪い子供は、実際には答えを丸写ししているだけです)。宿題をしないと解けるようにならないのに、なぜ成績の悪い子供は宿題をしないのか?まず第一に、周りに勉強よりも楽しいことがあるため、それに流されているというパターンです。「楽しいこと」とは、現在は主にネットとゲームです。この場合の対処法は簡単、「勉強よりも楽しいもの」を処分すればいいだけの話です。それは保護者にしかできませんし、それができないのであれば、子どもの勉強での成功はあきらめるしかありません。

 第二に、その宿題の難易度がその子のレベルに合っていないというパターンです。宿題というのは基本的に不特定多数を対象に出されるものであるため、そのレベルについていけない子供にとっては、宿題は苦痛でしかありません。この場合は、宿題の中でも自分にできること「だけ」をするしかありません。もし今勉強している範囲より以前でつまづいている場合は、そこに戻ってやり直すしかありません。人にはだれしも、「ここまでなら頑張れる」というラインがあります。そのぎりぎりのラインを拾っていければ、学力は身に付けられます。

 一方で、「宿題をちゃんとしているのに、テストでは点数がとれない」そういう子供もいます(答えの丸写しじゃなく、本当にやっている子供です)。学校で真ん中より少し上、くらいの子供がこのパターンです。そういう子供はたいてい、宿題を一回しかしていません。一回やってみて間違えた問題を直しをしただけで終わってしまっているため、テストでは点数をとれません。間違えた問題が解けるようになるためには、その問題を自力で解けるようになるまで何回も何回もしなければなりません。直しをして理解しただけでは足りないのです。「理解」と「解ける」は完全に別物なんです。「でも宿題はちゃんとやったもん!」「でも直しはしたもん!」だから何?評価は点数でしかしてもらえません。

 逆に言えば、宿題をしなくても解けるのであれば、宿題をする必要は全くありません。ある程度学力が高まれば、自分にとってその宿題が必要か不要かというのは容易に判断できるようになります。自分にとって優先すべき科目の課題があるのに、他の科目からの大量の宿題に時間をとられ、本来やるべきことに時間を割けない。そういう思いをしている人(特に高校生)は多いのではないでしょうか?そういう人は自分の直感を信じるべきです。私自身も、明らかに「これ、無駄だろ」と思う宿題は全くしませんでした。学校からすれば宿題をしていなくても結果さえ出していれば問題はないので、適当にやったふりして答えを丸写ししても特に問題ありません(あくまで、やらなくても「できる」のが前提です)。

 繰り返しになりますが、宿題というのは不特定多数を対象にしているものです。宿題が個々人のニーズに合わないのはむしろ当然なのです。本来、子どもが自主的に復習できるのであれば、学校は宿題を出す必要なんてありません。自分のことは自分にしかわからないのですから、最終的には自分で課題を設定して自分で復習をしていかねばなりませんし、そうしないといつまで経っても学校に依存してしまうことになります。

2017年11月16日 (木)

努力について

 「努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力している。」かのベートーヴェンの言葉です(てっきり、『はじめの一歩』の鴨川会長のオリジナルの台詞だと思ってました)。勉強にしろスポーツにしろ、努力なしに成功することはできないということでしょう。辞書によれば、「努力」とは「目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。」とのこと。ある人は子供に対し、「寝る間も惜しんで勉強しろ!」「苦しくても歯を食いしばって努力しろ!」と仰っていました。そうなると、私自身は「努力」はできないですね。少なくとも私は、寝る間を惜しんだり苦しいのを我慢すると、「もう二度とやりたくねー!」と感じ、ますます勉強が嫌いになりました。ベートーヴェンの言う「努力」が日本語の「努力」と同じ意味なのか、そのあたりはよくわかりませんが、ベートーヴェンが「私は、自分に課せられていると思っている創造を全てやり遂げずに、この世を去るにはいかないのだ。」と言っているあたり、ベートーヴェンには創造に対する内面的衝動が先にあり、それに体がついていけない(難聴と肝硬変)から努力したという感じでしょうか。少なくとも、外からあーだこーだ言われて嫌々努力したという感じではないようです。

 私自身、大学受験のときは、自分では努力したと思っております。ただ、「寝る間を惜しんで」とか「歯を食いしばる」とか、そういう思いは全くしていません。自分がやるべきことをやっていたら、いつの間にか時間が過ぎていた、そういう感覚です。要するに、いつの間にか勉強に没頭していた、ハマっていたという感覚です。結果的に睡眠時間が短くなることはありましたが、それはあくまで没頭の結果であり、そこに負の感情はありませんでした。なぜハマれたかというと、自分で立てた戦略が自分にとって無理のないものだったからです。どうすれば気持ちを切らさないでいられるか(家庭での環境づくり)、今の自分は何ができるか、どのレベルなら頑張れるか、いかに無駄なこと(主に学校の課題)をしないで済ませられるか、そういうところを正しく自己分析して戦略を立てられれば、あとはそれに従えば何ら苦ではありませんでした。努力は主体性ありきです。疲れたらすぐに休みましたし、眠くなったら眠りましたし、遊びたくなったらすぐに遊びました。仮に当時、眠いのを「我慢」して勉強していたり、自分のレベルや方向性にまったく合わない学校の課題をクソ真面目にやっていたり、遊びを一切シャットアウトしていたら、間違いなく途中で挫折していたと思います。

 日本人は努力が大好きです。努力なしに成功できないのは間違いないでしょう。ただ、努力の方向性に関しては、未だに戦前のメンタリティがそのまま残っている印象です。つまり、圧倒的なアメリカとの戦力差を「気迫でなんとかしろ!」というもの。戦前のメンタリティが残っている人は、他人が壁にぶつかっているのを精神力で超えるよう強要してきます。子供に「寝る間を惜しめ」とか「歯を食いしばれ」とか言っている人もしかり。そういう精神論を強要された子供たちが言うとおりに勉強するかと言えば、実際にはほとんどしないでしょう。精神論以前に、家が勉強に集中できない環境であったり、そもそも勉強の難易度がその子供に合っていなかったり、子どもの食生活や睡眠時間が乱れていたり、子供が運動不足であったり、先に改善すべきことがいくらでもあるのに、それらを全部すっ飛ばして「精神力で何とかしろ」と強要します。精神論=ノープランです。戦前の日本は、アメリカに特攻を仕掛けて玉砕しました。子供が玉砕する前に、試すべきことはいくらでもあります。

2016年7月29日 (金)

人権作文について

 毎年中学生用の課題として出される人権作文ですが、「人権」なんて言ったって子供にはぴんと来ないのではないでしょうか?かつては、政府に都合の悪い書物は読むのを禁止され(知る権利の侵害)、身分制度により自分のやりたい職業にもつけず(職業選択の自由の侵害)、好きな相手とも結婚できず(婚姻の自由の侵害)、政府の批判をすれば警察に捕らえられ(表現の自由の侵害)、まともに裁判を受けられず(裁判を受ける権利の侵害)、選挙権すら認められない、そのような時代がどの国にもありました。しかし現在では人権は厚く保障され、人々は何不自由なく生活できるようになりました。そういう現状で、人権の大切さを子供に認識させるのはなかなか難しいことです。

 ただ、子供にも人権の制約がないわけではありません。子供には飲酒や喫煙の自由がありません(「~の自由」は人権のうち「自由権」に含まれます)。しかしこれらを制約するのは子供の健康を守るためであり、その制約には合理的な理由があります(これを「公共の福祉」といいます)。これらの人権は、子供を守るという利益に比べたら、それほど重要な権利ではありません。あるいは、例えば医療ドラマを見て感動した中学生が「よーし、明日から医者として働くぞ!」と思っても医師免許がないので医者として働けません。この場合、医師の免許制度は中学生の「職業選択の自由」を制約していることになりますが、医療知識のない人が患者の治療をしても効果がないどころか、患者が死んでしまうことになるため、この制約には理由があります。しかし、例えば、部活動で試合中にミスをして顧問にビンタされた、こういう場合、その生徒の「身体の自由」は侵害されていることになります。顧問からすれば「生徒を教育する権利(教育権)」の範囲内だ(いわゆる「愛のムチ」)と反論することになるでしょうが、ではこのビンタは教師の「教育権」の範囲内と言えるのか、「身体の自由」この場合「殴られない自由」は顧問の「教育権」により制約されるだけの合理的な根拠があるのか?ビンタが教育権の範囲外であるならば、それは人権侵害になります。あるいは授業中に生徒が教師の質問に答えられないとき、教師から「アホ!」などと罵られたり「こんなんも分からんの?」と小馬鹿にされた場合、こういう発言は教師の「教育権」の範囲内なのか、生徒の「名誉感情」を教師の「教育権」で侵害できるのか?これらの発言が教育権の範囲外であるならば、それは人権侵害になります。あるいは、中学受験を控えた生徒が「学校に行かんと家で勉強したい」と言ったとき、学校が「学校に来て授業を受けろ!」と強制してきた、この場合、生徒の「(自分で)学習する権利」と学校の「教育権」とがぶつかることになりますが、果たして学校の教育権は生徒の自宅学習の権利を制約できるのか、問題となります。あるいはもっと単純な例で、「勉強したくない!」という子供に対して親が「勉強しろ!」と強制することは許されるのか、この場合、子供の「勉強をしない自由」と親の「教育権」が衝突することになりますが、親に教育権の優越を主張できるだけの合理的理由がない限り、それを強制するのは子供の人権侵害になります。今、関西テレビで『ウォーターボーイズ』の再放送がされていますが、生徒達が「学園祭でシンクロ公演をしたい」という主張に対して、学校側が「受験勉強に専念させるため、公演は認めない」と言ってきた場合、このような制約は認められるのか?シンクロ公演をする自由は「表現の自由」に含まれますが、学校側の教育権、この場合、「生徒達の将来ために受験勉強に専念させて良い大学に行かせる」という理由で制約できるのか?

 長々と書きましたが、要するに、人権あるいは人権侵害というのは日常生活のあらゆる場面でいくらでも問題になり得るということです。学校によっては「犯罪被害者の人権について」だの「アイヌ民族の人権問題について」だの、やたらと壮大なテーマが出されたりしますが、そういう日常生活からかけ離れたものでなくても、まずは身近なところから人権意識をつけていった方がいいように思います。

2016年4月23日 (土)

コスパについて

 少し前に読んだ百田直樹さんの『大放言』という本の中に、「何でもコスパで考えるバカ」という一説がありました。若者が何でもかんでもコスパ(コストパフォーマンス)で考え、「結婚はコスパが悪い」「車はコスパが悪い」と合理的に何でも考える若者を「何か大事な価値観が抜けている」と批判されています。百田さんは若いときに金が無かったにもかかわらず車を買い、そのせいで金銭的に苦労されたそうですが、その車のおかげで豊かな人生を送れた、コスパでは測れない大きな満足感を得られたとおっしゃっています。

 勉強においてコスパを考えることは決して悪いことではありません。むしろ、限られた時間で最も効率の良い勉強法を考えるのは非常に有意義なことです。しかし、何でもかんでもコスパで考えると弊害が出てきます。以前教えていた生徒ですが、彼は偏差値70近い高校に入学できたまでは良かったものの、その後カリキュラムについていけず、学年最下位のままゲーム三昧の日々を送っていました。英単語帳から「この単語の意味、言ってみて」と出題すると、一問も答えられないという状態でした。本人曰く、「やらなあかんのはわかっているけど、やる気が起きない」とのこと。そこで私は書いて覚えることを勧めたのですが、彼は「でもなぁ~、(書くのは)効率悪いからなぁ~」と一言。確かに書いて覚えるというのはコスパは悪いですが、毎日朝方までゲームをするぐらいなら、その時間を1時間でも書いて覚える時間に回すぐらいわけないはずなのですが、おそらく、「もっと楽して覚える方法ないかなぁ~」というのが本音でしょう。そんな簡単な方法があれば誰も苦労しません。その生徒ですが、一事が万事、数学に関しても、「まずは基本だけやってみよう」と勧めても、「でもなぁ~、それだけできてもテストでは点取れないからなぁ~」で、結局テストではその基本すらも正解できません。その生徒から将来の進路について意見を求められたため、私は「アニメやゲームが好きなら作家か脚本家を目指せば?(その生徒は文系)」と勧めたところ、「でもなぁ~、なれるの一部やしなぁ~」「下積み時代の給料、激安やからなぁ~」とのこと。要するに、「楽して、かつたくさん稼げる仕事がいい」のでしょう。んな仕事、あるかい!

 そもそもコスパで考えるのであれば、学校に行かず独学すればよいのです。最も効率の良い勉強方法は、間違いなく独学です。自分のペースで勉強できますし、何よりお金がかかりません。独学で高認取って、それで大学に進めばいいのです(もっと言えば、これからは学歴の価値がますます下がる時代なので、大学に行かず図書館でタダで知識を得て学力を高めた方が遥かにコスパがいいでしょう)。ただ、実際にそれをできるのは、よほどストイックで自制心のある人だけでしょう。何でもかんでもコスパで考える人は、感情というものを置き去りにします。効率の良い完璧な計画ばかりを立てるのはいいものの結局長続きせず、そのまま卒業まで惰性で過ごすというパターンの方が多いでしょう。勉強をする時に基準にすべきは、満足感や達成感です。「ああ、今日俺頑張ったなー」と思えるような一日を過ごすべきです。

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