その他

2018年9月24日 (月)

集中力は有限です

 例えばRPG(ロールプレイングゲーム)で魔法使いが魔法を使うにはMP(マジックポイント)が必要なのと同じように、勉強においても使える集中力は限られています。ところが、以前にも述べたように、昔からなぜか勉強に関しては、集中力が切れても「そこは気合いで何とかなる!」と思いがちです。私自身、高校時代の成績は極めて平凡なもので(ただ英語と世界史だけは順位が毎回一桁台だったので、ギリギリ文系の上位層に入っていました)、毎回テスト1週間前になると「今回は気合い入れてマジで頑張ろう!」と思いつつも結局だらだらと遊んでしまい、3日前になってもエンジンがかからず、結局いつもの一夜漬けというパターンになっていました。そりゃ普段は全然勉強していないんだから、急に集中力が発揮できるわけがありません(MP0状態です)。で、一夜漬けしてどっと疲れるからますます勉強が嫌いになる。今にして思うと、馬鹿の極みですね。

 かつての頭のいい同級生たちにしろ、たまにいるものすごく成績のいい生徒にしろ、共通しているのは、勉強するのが普通の状態になっているという点です。気合い入れて勉強を頑張るというわけではなく、どちらかと言うと趣味の延長のような、勉強するのが呼吸をするのと同じように「普通」という状態です。そして、その状態をずっと続けていると、いつの間にか経験値がたまりまくってMPの最大値がMAXになっていという状態なのでしょう。東大生のアンケート調査なんかを読んでみると、「普通に勉強してたら受かっちゃいましたw」みたいなことが書かれていますが、これって決して見栄はって言っているわけじゃなく、結構本音なんだろうなって思うのです。おそらく彼らは「勉強は楽しい」と答えるでしょう。仮に彼らが気合入れて死ぬほど勉強していたら、勉強疲れでかえって勉強嫌いになって、東大に受かっていなかったんじゃないかと。結局、苦にならない範囲で、少しずつ少しずつ経験値を積み上げて、MPの最大値を増やしていくのが一番なんじゃないかという気がします。

 私が中高生の時代にはヤンキーがたくさんいました(ヤンキーがどんな人たちか知りたい人には、加瀬あつしさんのギャグ漫画『カメレオン』がお勧めです)。ヤンキーの大半は口だけのヘッポコ野郎なのですが、中には結構無茶なことをする、本当に気合の入った人たちもいました。じゃあ「なぜそんなに気合のある人たちなのに、勉強やスポーツを頑張らないんだ?」というと、気合は一瞬しか出せないからです。聖闘士星矢の主人公たちが毎回瀕死の状態になりながらも「うおおおお!燃えよ俺のコスモよ!」と言ってコスモを爆発させて強敵に逆転できるのは、一瞬の気合を使うだけでいいからです。ただ、勉強やスポーツのように積み重ねないとどうしようもない分野では、気合だけではどうにもなりません。気合で一瞬の痛みに耐えたり火事場のクソ力を出すことはできますが、MPを上げることはできません。むしろ気合い入れるとMPの消費量が多くなります。

 要するに、勉強においては「気合い」なんて不確かなものに頼ってはいけないということです。私自身もそうでしたが、「気合いで何とかなる」は思い上がりです。集中力は有限であることを認識したうえで勉強していかねばなりません。そしてMPの最大値は、苦にならない範囲で勉強を習慣化して、経験値をためてレベルアップして、少しずつ上げていくしかありません。そして勉強を習慣化するには、点数とか順位とか、余計なことを考えず、ただ純粋に勉強を楽しむことです。私は大学を卒業してから理系科目を勉強し直しましたが(「理系科目から逃げた」というコンプレックスを消したかったのです)、それはあくまで「趣味」の延長です。テストというプレッシャーもなく、他人と成績を比較されることもなく、余計なことを考えずに勉強したから楽しめました(あとは時間を気にせずに勉強できるという点も大きいと思います)。受験生はプレッシャーや他人との比較は不可避でしょうが、そこをなるべく意識しないで勉強した方が良い結果が得られると思います。

2018年8月11日 (土)

ズルはダメ!

 私の経験上、絶対に成績を上げることのできないタイプの子供がいます。「宿題を全くしない子供?」ではありません(ちなみに宿題とは、私が独自に出す宿題ではなく、学校(中学受験であれば塾)から出された宿題のことです)。家で全く宿題をしない子供でも、正直に「やってません」と言ってくれる子供はまだ「いい子」です。「見込み十分アリ」です。宿題を全くしてこなくても、家庭教師の時間内でできる限りのことをすれば、決して高望みはできませんが、ある程度までは対処できます(子供が何か厳しめのスポーツをやっている場合は、子供の集中力が非常に高いので、さらに高いレベルまで対処できます)。また、子供が家で宿題をしないのには必ず理由があるのですから、子供がその理由を正直に話してくれれば、そこを改善するための具体案を出すことはできます(経験上、勉強の難易度を下げ、家庭の環境を変えれば、うまくいくことが多いです)。「正直の頭に神宿る」です。

 絶対に成績を上げることのできない子供、それは、ズルをする子供です。ズルをする子供とは、典型的なのは、宿題の答えを丸写しして「宿題やりました!」と嘘をつく子供です(宿題が出されているのに「出されていません」と嘘をつく子供や、宿題をやっていないのに「やりました!」と嘘をつく子供も)。私は基本的に子供を叱るということをほとんどしませんが、子供がズルをしたときだけは、かなり叱るようにしています。ズルをして得られるものはありません。仮に子供の頃にズルをすることで味をしめてしまうと、その子供は大人になってから大いに苦労することになります。子供のズルを見破って叱るのは、大人の役目だと思っております。「ズルはダメ!」、これは知人の受け売りですが、細かい小言は言わないかわりに、その「ズルをしない」というラインを超えたときだけは徹底的に叱る、それでいいと思います。

 「宿題をしていない」からといって子供を頭ごなしに叱っても、ほとんど効果はありません。むしろ、子供の嘘のスキルを上げてしまうだけになってしまいます。私は子供に対し、「宿題をしていなくても決して叱らないから、やっていないときは正直に言って」と伝えております。それでも、何度注意しても子供がズルをやめない場合、その子供は「見込みナシ」ということで、契約を解約させていただきます。申し訳ありませんが、こういう子供は勉強には向いていません。勉強よりも何か他の道を探して、そこで頑張る方が、その子供が幸せになれる確率が高いと思います。

2018年5月29日 (火)

「普通」と言ってはいけない

 例えば、自分の子供がテストで酷い点数を取ると、親は「何だ!この点数は!!」と怒り、子供に対し延々と説教をする。初めのうちは我慢していた子供も、だんだんそれに耐えられなくなり、「ごちゃごちゃうるさいんじゃ!」と反発すると、親は「これぐらい(の説教は)普通だ!」「どこの親でもみんな言うわ!」と言い返す、なんてのはよくあるパターンではないでしょうか?では、子供がテストで酷い点数を取ると親が延々と説教するのは「普通」か?と聞かれれば、かなり疑問に感じる方も多いのではないでしょうか?(私個人としては、勉強をサボって酷い点数ならば、サボったことに対して説教するのはいいと思いますが、ちゃんと勉強したけど酷い点数の場合、結果に対して説教するのは子供に酷な気がします。その「酷い点数」というのも、あくまで相対的なものに過ぎません)実際、酷い点数をとったことに対して説教するのが「普通だ!」と言う親は、本当にそれが普通かどうか統計を取って調べたわけではないでしょう。その「普通」は単なる思い込みであって、決して「普通」ではありません。

 「普通」という言葉を安易に使うのはいただけません。「普通」という言葉を安易に使う人には、責任逃れの意識が少なからずあります。「他の人もやって(言って)いるのだから、自分がそれをする(言う)のもいいんだ」という意識です。例えば、ゲーム機やスマホが欲しくてしょうがない子供は「友達はみんな持ってる!」「今時、持ってるのが普通だ!」と言って親にねだります。では、その友達が自殺したら、その子供も自殺するのでしょうか?あるいは、そういう子供の要求に対し、「ゲーム機やスマホくらい、買ってあげるのが普通」という勝手な思い込みで安易に買い与える親も思考停止してしまっています。その結果、子供がゲームやネット中毒になってしまった場合、その責任は買い与えた親にあります。「友達はみんな持っているって言うし~」なんて関係ありません。あくまで「自分の子供にとって」ゲーム機やスマホを買い与えるのが妥当かどうか、買い与えた場合のリスクを考えた上で、自分自身で判断すべきです。

 こらからの時代は価値観が多様化して相対化していきます。「平均」は存在しても、「普通」なんてものは存在しなくなります。あるのは主体性と他者との個人的関係性のみ、「普通は~」なんて言っていると、誰にも話を聞いてもらえません。自分の考えで自分の言葉で伝えない限り、決して相手には届きません。

2018年3月 6日 (火)

思考を言語化する

 私が大学に入ってから最も苦労したこと、それは「上手く話せない」ということでした。学生同士で討論する場面で、言いたいことはあるのですが、それをうまく表現できない、論理的に組み立てられない。結局、つたない単語を組み合わせて当たり障りのないことを言うだけで「自分の意見」というものに昇華できない、そういうことが多々ありました。

 上手く話せなかった原因はいくつかあります。一つ目は、中・高時代に知識や解法を覚えることに偏り過ぎて、教科書という最高のツールを活用しなかったこと。教科書には必要なことがすべて載っています。「~だから~」、あらゆる記述が論理的に配列され、無駄な部分が1ミリもありません。この仕事をするようになって改めて教科書を読み直して、初めてその凄さに気づきました(特に理系科目)。結局、学校の教師達の言っていたことが正しかったわけですが、高校生の頃の私には教科書を読み込むだけの学力はありませんでした。それは中学時代に、教科書を読み込むことをしてこなかったためです。教科書の要点だけを押さえて本質的なことを理解しないまま問題集を解いて知識を固める、要領よくやったつもりでしたが、そのツケを高校以降に払うことになりました。

 二つ目は、国語教育に問題があります。国語(というか現代文)では、主に文章の読解のみが行われています。「筆者の主張を正しく解釈しろ」というものです。コミュニケーションは、①まず相手の言っていることを正しく理解して、そのうえで、②自分の意見を伝える、その繰り返しで成立します。①が正しくできないと、相手としては「いや、そんなつもりで言ったんじゃねえよ!」ということになり、コミュニケーションが成立しません。なので、①をすることは必要なのですが、問題は、②がほとんど行われていないことです(戦前であれば上官の言うことをきくだけの兵士を育てるため、戦後であれば上司の言うことをきくだけのサラリーマンを育てるため、国家にとって②は不要どころか有害でありました)。教育制度改革でどこまで改善されるのかは分かりませんが、今のままではいけません。②ができないと話を聞くだけで終わってしまうだけなので、もしかしたら男性は女性にモテるかもしれませんが。

 少し前に老荘思想と「断捨離」ブームが起こり、ミニマリストが増加し、その後に「承認欲求を捨てろ」というアドラー心理学が流行しました。これまでの拝金主義や学歴主義が崩壊し、人が人としての生き方を模索していることの表れに思います。国家や通貨も、もしかしたら崩壊するかもしれません。そうなると、大切なのは他者との精神的なつながりになります。自分がどういう思想や哲学を持っているのか、それを相手に伝えるためのコミュニケーション能力がより重要になってきます(要するに、学歴や金があってもモテないし、満たされないし、幸福感も感じられない、ということです)。そのためにも、普段から思考を言語化する癖をつけなければなりません。日記やブログを書くのもよし、誰かと好きな漫画や映画を語り合うもよし、割と女子は普通にやっていますが(ゆえに女性は昔からコミュニケーション能力が高いのです)、男子もしなければなりません。

 思考の言語化以前に、そもそも言語化ができないという人は、まずは語句の説明から始めてみると良いでしょう。例えば歴史の問題集では、「Q:民族と国家の利益を最優先する軍国主義的な独裁政治の体制を何というか。」「A:ファシズム」というような一問一答の問題がありますが、それを逆にする、つまり、「Q:ファシズムとは何ですか。」「A:ファシズムとは、~」という形にすれば、歴史の知識と言語化能力を同時に身に付けられるので一石二鳥です(文を丸暗記しろと言っているわけではありません。自分なりの表現ができればよいのです)。これから始まる大学入試制度改革で明言されているのが「総合的学力」の必要性、知識をいかに言語化できるかが評価の対象となります。勉強の難易度は上がりますが、それに早く対応できた人が勝ちます。

2017年11月23日 (木)

宿題について

 宿題とは?広辞苑によれば「学校で学習したことの復習または予習のため家庭でやらせる課題。」とのこと。ではなぜ、学校(や塾)は宿題を出すのか?それは反復させて問題を解けるようにさせるためです。例えば、子供に自転車の乗り方をマスターさせるには乗り方を教えるだけではダメで、実際に自転車に乗せて練習させないと乗れるようにはなりません。それと同じで、学校や塾で解き方だけ教わっても実際に解かせてみないと解き方は身につきません。

 「宿題をちゃんとしているのに、テストでは点数がとれない」そういう子供が多々います。そういう子供はたいてい、宿題を一回しかしていません。一回やってみて間違えた問題を直しをしただけで終わってしまっているため、テストでは点数をとれません。間違えた問題が解けるようになるためには、その問題を自力で解けるようになるまで何回も何回もしなければなりません。直しをして理解しただけでは足りません。「理解」と「解ける」は完全に別物なんです。

 宿題をしないと解けるようにならないのに、なぜ成績の悪い子供は宿題をしないのか?まず第一に、周りに勉強よりも楽しいことがあるため、それに流されているというパターンです。「楽しいこと」とは、現在は主にネットとゲームです。この場合の対処法は簡単、「勉強よりも楽しいもの」を処分すればいいだけの話です。それは保護者にしかできませんし、それができないのであれば、子どもの勉強での成功はあきらめるしかありません。

 第二に、その宿題の難易度がその子のレベルに合っていないというパターンです。宿題というのは基本的に不特定多数を対象に出されるものであるため、そのレベルについていけない子供にとっては、宿題は苦痛でしかありません。この場合は、宿題の中でも自分にできること「だけ」をするしかありません。もし今勉強している範囲より以前でつまづいている場合は、そこに戻ってやり直すしかありません。人にはだれしも、「ここまでなら頑張れる」というラインがあります。そのぎりぎりのラインを拾っていければ、学力は身に付けられます。

 逆に、宿題がその子にとって不要なものであるパターンもあります。ある程度学力が高まれば、自分にとってその宿題が必要か不要かというのは容易に判断できるようになります。自分にとって優先すべき科目の課題があるのに、他の科目からの大量の宿題に時間をとられ、本来やるべきことに時間を割けない。そういう思いをしている人(特に高校生)は多いのではないでしょうか?そういう人は自分の直感を信じるべきです。私自身も、明らかに「これ、無駄だろ」と思う宿題は全くしませんでした。学校からすれば宿題をしていなくても結果さえ出していれば問題はないので、適当にやったふりして答えを丸写ししても特に問題ありません(あくまで、やらなくても「できる」のが前提です)。

 繰り返しになりますが、宿題というのは不特定多数を対象にしているものです。宿題が個々人のニーズに合わないのはむしろ当然なのです。本来、子どもが自主的に復習できるのであれば、学校は宿題を出す必要なんてありません。自分のことは自分にしかわからないのですから、最終的には自分で課題を設定して自分で復習をしていかねばなりませんし、そうしないといつまで経っても学校に依存してしまうことになります。

2017年11月16日 (木)

努力について

 「努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力している。」かのベートーヴェンの言葉です(てっきり、『はじめの一歩』の鴨川会長のオリジナルの台詞だと思ってました)。勉強にしろスポーツにしろ、努力なしに成功することはできないということでしょう。辞書によれば、「努力」とは「目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。」とのこと。ある人は子供に対し、「寝る間も惜しんで勉強しろ!」「苦しくても歯を食いしばって努力しろ!」と仰っていました。そうなると、私自身は「努力」はできないですね。少なくとも私は、寝る間を惜しんだり苦しいのを我慢すると、「もう二度とやりたくねー!」と感じ、ますます勉強が嫌いになりました。ベートーヴェンの言う「努力」が日本語の「努力」と同じ意味なのか、そのあたりはよくわかりませんが、ベートーヴェンが「私は、自分に課せられていると思っている創造を全てやり遂げずに、この世を去るにはいかないのだ。」と言っているあたり、ベートーヴェンには創造に対する内面的衝動が先にあり、それに体がついていけない(難聴と肝硬変)から努力したという感じでしょうか。少なくとも、外からあーだこーだ言われて嫌々努力したという感じではないようです。

 私自身、大学受験のときは、自分では努力したと思っております。ただ、「寝る間を惜しんで」とか「歯を食いしばる」とか、そういう思いは全くしていません。自分がやるべきことをやっていたら、いつの間にか時間が過ぎていた、そういう感覚です。要するに、いつの間にか勉強に没頭していた、ハマっていたという感覚です。結果的に睡眠時間が短くなることはありましたが、それはあくまで没頭の結果であり、そこに負の感情はありませんでした。なぜハマれたかというと、自分で立てた戦略が自分にとって無理のないものだったからです。どうすれば気持ちを切らさないでいられるか(家庭での環境づくり)、今の自分は何ができるか、どのレベルなら頑張れるか、いかに無駄なこと(主に学校の課題)をしないで済ませられるか、そういうところを正しく自己分析して戦略を立てられれば、あとはそれに従えば何ら苦ではありませんでした。努力は主体性ありきです。疲れたらすぐに休みましたし、眠くなったら眠りましたし、遊びたくなったらすぐに遊びました。仮に当時、眠いのを「我慢」して勉強していたり、自分のレベルや方向性にまったく合わない学校の課題をクソ真面目にやっていたり、遊びを一切シャットアウトしていたら、間違いなく途中で挫折していたと思います。

 日本人は努力が大好きです。努力なしに成功できないのは間違いないでしょう。ただ、努力の方向性に関しては、未だに戦前のメンタリティがそのまま残っている印象です。つまり、圧倒的なアメリカとの戦力差を「気迫でなんとかしろ!」というもの。戦前のメンタリティが残っている人は、他人が壁にぶつかっているのを精神力で超えるよう強要してきます。子供に「寝る間を惜しめ」とか「歯を食いしばれ」とか言っている人もしかり。そういう精神論を強要された子供たちが言うとおりに勉強するかと言えば、実際にはほとんどしないでしょう。精神論以前に、家が勉強に集中できない環境であったり、そもそも勉強の難易度がその子供に合っていなかったり、子どもの食生活や睡眠時間が乱れていたり、子供が運動不足であったり、先に改善すべきことがいくらでもあるのに、それらを全部すっ飛ばして「精神力で何とかしろ」と強要します。精神論=ノープランです。戦前の日本は、アメリカに特攻を仕掛けて玉砕しました。子供が玉砕する前に、試すべきことはいくらでもあります。

2016年7月29日 (金)

人権作文について

 毎年中学生用の課題として出される人権作文ですが、「人権」なんて言ったって子供にはぴんと来ないのではないでしょうか?かつては、政府に都合の悪い書物は読むのを禁止され(知る権利の侵害)、身分制度により自分のやりたい職業にもつけず(職業選択の自由の侵害)、好きな相手とも結婚できず(婚姻の自由の侵害)、政府の批判をすれば警察に捕らえられ(表現の自由の侵害)、まともに裁判を受けられず(裁判を受ける権利の侵害)、選挙権すら認められない、そのような時代がどの国にもありました。しかし現在では人権は厚く保障され、人々は何不自由なく生活できるようになりました。そういう現状で、人権の大切さを子供に認識させるのはなかなか難しいことです。

 ただ、子供にも人権の制約がないわけではありません。子供には飲酒や喫煙の自由がありません(「~の自由」は人権のうち「自由権」に含まれます)。しかしこれらを制約するのは子供の健康を守るためであり、その制約には合理的な理由があります(これを「公共の福祉」といいます)。これらの人権は、子供を守るという利益に比べたら、それほど重要な権利ではありません。あるいは、例えば医療ドラマを見て感動した中学生が「よーし、明日から医者として働くぞ!」と思っても医師免許がないので医者として働けません。この場合、医師の免許制度は中学生の「職業選択の自由」を制約していることになりますが、医療知識のない人が患者の治療をしても効果がないどころか、患者が死んでしまうことになるため、この制約には理由があります。しかし、例えば、部活動で試合中にミスをして顧問にビンタされた、こういう場合、その生徒の「身体の自由」は侵害されていることになります。顧問からすれば「生徒を教育する権利(教育権)」の範囲内だ(いわゆる「愛のムチ」)と反論することになるでしょうが、ではこのビンタは教師の「教育権」の範囲内と言えるのか、「身体の自由」この場合「殴られない自由」は顧問の「教育権」により制約されるだけの合理的な根拠があるのか?ビンタが教育権の範囲外であるならば、それは人権侵害になります。あるいは授業中に生徒が教師の質問に答えられないとき、教師から「アホ!」などと罵られたり「こんなんも分からんの?」と小馬鹿にされた場合、こういう発言は教師の「教育権」の範囲内なのか、生徒の「名誉感情」を教師の「教育権」で侵害できるのか?これらの発言が教育権の範囲外であるならば、それは人権侵害になります。あるいは、中学受験を控えた生徒が「学校に行かんと家で勉強したい」と言ったとき、学校が「学校に来て授業を受けろ!」と強制してきた、この場合、生徒の「(自分で)学習する権利」と学校の「教育権」とがぶつかることになりますが、果たして学校の教育権は生徒の自宅学習の権利を制約できるのか、問題となります。あるいはもっと単純な例で、「勉強したくない!」という子供に対して親が「勉強しろ!」と強制することは許されるのか、この場合、子供の「勉強をしない自由」と親の「教育権」が衝突することになりますが、親に教育権の優越を主張できるだけの合理的理由がない限り、それを強制するのは子供の人権侵害になります。今、関西テレビで『ウォーターボーイズ』の再放送がされていますが、生徒達が「学園祭でシンクロ公演をしたい」という主張に対して、学校側が「受験勉強に専念させるため、公演は認めない」と言ってきた場合、このような制約は認められるのか?シンクロ公演をする自由は「表現の自由」に含まれますが、学校側の教育権、この場合、「生徒達の将来ために受験勉強に専念させて良い大学に行かせる」という理由で制約できるのか?

 長々と書きましたが、要するに、人権あるいは人権侵害というのは日常生活のあらゆる場面でいくらでも問題になり得るということです。学校によっては「犯罪被害者の人権について」だの「アイヌ民族の人権問題について」だの、やたらと壮大なテーマが出されたりしますが、そういう日常生活からかけ離れたものでなくても、まずは身近なところから人権意識をつけていった方がいいように思います。

2016年4月23日 (土)

コスパについて

 少し前に読んだ百田直樹さんの『大放言』という本の中に、「何でもコスパで考えるバカ」という一説がありました。若者が何でもかんでもコスパ(コストパフォーマンス)で考え、「結婚はコスパが悪い」「車はコスパが悪い」と合理的に何でも考える若者を「何か大事な価値観が抜けている」と批判されています。百田さんは若いときに金が無かったにもかかわらず車を買い、そのせいで金銭的に苦労されたそうですが、その車のおかげで豊かな人生を送れた、コスパでは測れない大きな満足感を得られたとおっしゃっています。

 勉強においてコスパを考えることは決して悪いことではありません。むしろ、限られた時間で最も効率の良い勉強法を考えるのは非常に有意義なことです。しかし、何でもかんでもコスパで考えると弊害が出てきます。以前教えていた生徒ですが、彼は偏差値70近い高校に入学できたまでは良かったものの、その後カリキュラムについていけず、学年最下位のままゲーム三昧の日々を送っていました。英単語帳から「この単語の意味、言ってみて」と出題すると、一問も答えられないという状態でした。本人曰く、「やらなあかんのはわかっているけど、やる気が起きない」とのこと。そこで私は書いて覚えることを勧めたのですが、彼は「でもなぁ~、(書くのは)効率悪いからなぁ~」と一言。確かに書いて覚えるというのはコスパは悪いですが、毎日朝方までゲームをするぐらいなら、その時間を1時間でも書いて覚える時間に回すぐらいわけないはずなのですが、おそらく、「もっと楽して覚える方法ないかなぁ~」というのが本音でしょう。そんな簡単な方法があれば誰も苦労しません。その生徒ですが、一事が万事、数学に関しても、「まずは基本だけやってみよう」と勧めても、「でもなぁ~、それだけできてもテストでは点取れないからなぁ~」で、結局テストではその基本すらも正解できません。その生徒から将来の進路について意見を求められたため、私は「アニメやゲームが好きなら作家か脚本家を目指せば?(その生徒は文系)」と勧めたところ、「でもなぁ~、なれるの一部やしなぁ~」「下積み時代の給料、激安やからなぁ~」とのこと。要するに、「楽して、かつたくさん稼げる仕事がいい」のでしょう。んな仕事、あるかい!

 そもそもコスパで考えるのであれば、学校に行かず独学すればよいのです。最も効率の良い勉強方法は、間違いなく独学です。自分のペースで勉強できますし、何よりお金がかかりません。独学で高認取って、それで大学に進めばいいのです(もっと言えば、これからは学歴の価値がますます下がる時代なので、大学に行かず図書館でタダで知識を得て学力を高めた方が遥かにコスパがいいでしょう)。ただ、実際にそれをできるのは、よほどストイックで自制心のある人だけでしょう。何でもかんでもコスパで考える人は、感情というものを置き去りにします。効率の良い完璧な計画ばかりを立てるのはいいものの結局長続きせず、そのまま卒業まで惰性で過ごすというパターンの方が多いでしょう。勉強をする時に基準にすべきは、満足感や達成感です。「ああ、今日俺頑張ったなー」と思えるような一日を過ごすべきです。

2016年4月 4日 (月)

良い友人を作ろう

 私は高校に入ってから落ちぶれました。最初の中間テストで400人中240番台、期末はさらに下がって280番台、それで完全に気持ちが折れてしまい、惰性で高校生活を送っていました。当時、同じ柔道部に「シゲ」という同級生がいました。彼も私と同じく中学から柔道をしていて、高校では成績がイマイチな人でした(おそらく、中間・期末とも150~200番台くらいだったと思います)。高1の2学期のある日、部室に行くと、シゲが一人でこっそりと何かを見てニヤニヤしていました。何を見ているのか気になったので強引に見せてもらったところ、テストの総合順位が「8位」と書かれたテスト結果一覧表でした。本人曰く、「今回いつもよりちょっと頑張った」とのこと。「少し頑張るだけで、全然違うから、やった方がええよ!」とも。傍から見ていて私とそれほど大差なかったと思われたシゲのその言葉には、説得力がありました。そしてシゲには失礼ですが、「シゲが結果出せたなら、俺も頑張ればいける!」と勝手に思いました。その言葉で急にやる気が出たとか、生活が劇的に変わったというわけではありませんでしたが、「やればできる!」という具体的なイメージは持てました。

 また、小学生の頃から付き合いのあるナオキという同級生がいるのですが、彼は高2の夏休みに「一緒に勉強しよう」と誘ってくれました。彼も成績はイマイチで、全然勉強しなかった人なのですが、「このままじゃあかん!」と思い、「一人じゃ勉強できへんけど、誰かがおったらできる」ということで、私を誘ってくれたのです。彼の家でほどほどに勉強して疲れたらゲーム(ウイイレとスト2)をしてリフレッシュ、彼のおかげで充実した夏休みを過ごせました。

 もう一つ。東大・京大志望以外の文系の生徒は通常、3年に上がるときに日本史と世界史の選択を迫られます。日本史も世界史も授業がさっぱりわからなかった私は、消去法で世界史を選択しました。日本史のあの資料を使ったマニアックな問題が大嫌いだったからです。友人の一人は『信長の野望』というゲームが好きだったことから日本史を選択していました(その子は戦国時代だけ異常に詳しかった)。3年に上がってある日の昼食後のこと、他愛ない会話の流れから日本史選択組と世界史選択組とで「なんでお前ら世界史(日本史)やねん!」という話になりました。日本史組の一人の「お前ら日本人なんやから、日本の歴史をもっと学ばんかい!」という意見に対し、私と同じ世界史選択組の一人だったナオキは「日本史は(中学で)一回やったことの焼き直しやおもんないけど、世界史は未知のことやからまだ興味が持てる」と反論しました。今までそんな発想をしたことのなかった私は思わず「おお!」とうなってしまいました。それから何となく、私も世界史に興味をもてるようになりました。

 彼ら以外の友人もみな面白い人達ばかりで、大いに笑わせてくれました。彼らのおかげでストレスなく楽しい高校生活を送れました。

 同じ落ちぶれる人でも2種類います。成績の良い人を見習って頑張ろうという人と、腐って成績の良い人を妬む人です。後者は落ちぶれてもプライドだけは高いので、成績の良い人を「めちゃめちゃ努力してるねー」などと皮肉ったり、テストの日に「いやー、昨日全然勉強してないわー」と聞いてもいないのに言い訳したりします。これは、「才能じゃお前に負けてねえよ!」という悲しき自己アピールなのですが、私はどんなに落ちぶれても、絶対にこんな人間にはならないでおこうと思いました。こういう人はこういう人同士で集まり、ますます生産性のないことをするようになります。

 自分を高めるには、良い友人と出会うことが大切です。良い友人とは、傷をなめあってくれる人ではなく、自分を高めてくれる人のことです。そういう人との関係を大切にしましょう。

2015年7月23日 (木)

ゆとり教育に関して

 今さらですが、ゆとり教育について。よく、ゆとり教育を受けた世代は「ゆとりw」などと小馬鹿にされる傾向にありますが、私の知る限り、ゆとり世代の学力が低いとは全く思いません。私の世代は覚えることがたくさんあったので、ほぼ「知識力=学力」という構図が成立していましたが、ゆとり教育によってカリキュラムが減った結果、覚えることが減り、知識だけでは学力に差がつかなくなった結果、テストの問題が難化しました。単純な知識だけでは解けない、思考力を試される問題がどの科目も増えました(もっとも、その反動で、暗記ごとをおろそかにする人が非常に増えた感もあります)。その結果、ゆとり世代の思考力は強くなりました。単純な知識量に関しては上の世代の方が勝っているように感じますが、ゆとり世代は上の世代に比べ、論理立てて自己主張するのが非常に上手いです。全体的に思考力が強くなった結果、増々受験競争が厳しくなりました。昔は西高、東高、市姫…と、明らかに学力差がありましたが、ゆとり以降はそれほど学力に違いは感じません。上のレベルが下がったというよりは、全体的に学力が上がったという印象です。実際、東高、市姫、飾西いずれも大学進学率が向上しています。「なんでこの子が飾西?」って言うくらい頭のいい子が飾西に通っていたりしています(逆に言えば、その中で他と差別化できた西高の世代はすごいと思います)。

 また、ゆとり教育によって、スポーツなど勉強以外にもエネルギーを注げるようになりました。現在世界で活躍しているスポーツ選手は、全てゆとり世代です。今の若手の活躍を見る限り、ゆとり教育は決して間違っていなかったんじゃないかと思います。明らかに勉強に向いていない子供はいます。私の中学時代の柔道部の同級生で全く勉強しない子達がいましたが、彼らは早々に勉強に見切りをつけて、自分が将来どうやって食べていくかを早い段階から考えていました。ヒロくんという子は、部活の後に建築現場でこっそりとアルバイトして荒稼ぎしていました。「金も稼げるし、体も鍛えられて一石二鳥や」とのこと。今は建設業をしています。シンくんという子は一応高校には行きましたが、「勉強してもしゃーない」と悟りすぐに自主退学し、その後いろんな仕事を経験して、今は美容院を経営しています。クワちゃんという子は卒業と同時にラーメン屋で働きはじめ、二十歳で店長になり、現在に至ります。皆立派にやっています。カリキュラムを増やしたところで、やらない子はやりません。むしろストレスがたまり、荒れます。それに、大人になってからでも勉強はできます。柔道部の女性の先輩は、現在、趣味で中学生用のドリルをやっているそうです。中学時代は全く勉強せず、10点と書かれた答案用紙を紙飛行機にして飛ばしているような人でしたが、今は「勉強って結構楽しいで」と言っています。勉強以外にも道はあるんだということを学ばせるのもまた、教育であると思います。

より以前の記事一覧

無料ブログはココログ